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第9話
美味しい食べ物。肌触りのいい服。キラキラした髪飾り。気持ちいいお風呂。いい匂いのする石鹸。心地いいものに囲まれた生活は、ヘルゲと過ごしたあの集落や、ハーラントとの旅の日々とは大違いだ。
これが大事にされてるってことなのかな?
ハーラントが言っていた通りだ。美味しい物、綺麗な服。でも楽しくない。ご飯集めが大変だったり、船酔いでたくさん吐いてしんどかったりしたあの日々の方が、いっぱい笑っていた気がする。
はあっとため息をついてユストは庭に面する窓を開いた。ハーラントに買ってもらったサンダルをはいて乗馬マントを持って庭に出る。庭を散歩することはフロレンツに許可されていた。
フロレンツからは、ハーラントと訪れた靴屋で一番初めにすすめられてはいた繊細で美しいサンダルによく似た、それよりももっと綺麗なものをプレゼントされていたがそれで庭に出ることはなかった。
「どうしてこれははいてくれないんですか?」
優しく問われたが、
「綺麗で汚しちゃいそうだから」
とだけ答えた。
歩きにくいと言ったらハーラントは歩きやすいものを買ってくれた。でもフロレンツは、歩く必要はないですよ、とユストを抱き上げて連れて行くだろう。フロレンツは優しい。優しいけれど……。
「なんにもすることないなぁ……」
庭の隅の木陰に座り込む。乗馬マントを抱いて顔を埋めた。
「もうなんの匂いもしないや」
馬上にいる間、ずっとハーラントの腕の中にすっぽりと納まっていた。ハーラントの匂いに包まれていたあの時間が無性に懐かしい。ほんの数日前なのに。
「ブロン元気かな」
鼻しぶきのシャワーを浴びてきゃあきゃあはしゃいだのが遠いむかしに感じた。
「ユストー」
子供っぽさの残るヴァレヒトの声が聞こえた。
「こんなところにいたんだ」
「ヴァレヒト王子、こんにちは」
「なにしてるの?」
「えっと、別に……ぼんやりしてただけ」
「庭の隅で? 部屋に戻ろうよ。おやつ持ってきたんだ。今日はねいい話もあるんだよ。後で兄上と兄様も来るしね」
ヴァレヒトはフロレンツを兄上、ルトヴィクを兄様と呼び分けているようだ。
「三人揃うのって最初のとき以来だね」
「だって重大発表だもん」
うふふとヴァレヒトが笑った。
「そうなんだ。じゃ戻るね」
立ち上がったユストを見てヴァレヒトが口をとがらせた。
「もー、ユストったらまたそんな格好してる。今日は特別な日だから、兄上がプレゼントした服を着て。ね、お願い」
小首を傾げて天真爛漫な顔でニッコリされると断りにくい。
「うん。部屋に戻ったら着替えるね」
「やった! 僕、ユストのあの格好好きなんだ。女神の姿絵にそっくりですごく綺麗なんだもん」
「そうかな?」
「そうだよ! 兄上もそう思ったからユストにあの服をプレゼントしたんだと思うなあ」
目の前を歩くヴァレヒトの尻尾がピコピコ動いている。末っ子のヴァレヒトはフロレンツやルトヴィクに比べると言動が幼い。獅子獣人は猿獣人に比べると体躯も大きく大人びて見えてユストには臆する雰囲気があるが、ヴァレヒトは弟のようで可愛らしい。
「ユスト、手をどうぞ」
部屋に続くガラス窓の前には数段の階段がある。そこでヴァレヒトは振り返った。
むくむくした手足をちょこまか動かして、フロレンツの真似をしてユストをエスコートしようとしてくると、ついつい言うことを聞いてしまう。
「ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして」
エスコートというよりは仲良く手を繋いで部屋へ戻る。
「ユスト、ユスト、早く着替えないと兄上が来ちゃう! 急いで!」
足踏みをしながらヴァレヒトがせかす。
「分かったから、ヴァレヒト王子は落ち着いて」
「うん。おやつの用意をして待ってるね。楽しみだなあ」
ヴァレヒトはウキウキ尻尾を振り回している。
そんなに喜ぶお知らせってなんだろう?
ユストは疑問に思いながら隣の寝室へ移動した。寝室には大きなクローゼットが備え付けられている。その中はフロレンツから贈られた服でいっぱいだった。
「ヴァレヒト王子が言ってるのってこれかな」
ユストは薄物を重ねて繊細な色を表している服を取り出した。たっぷりドレープを重ねていて花のようだ。
シーザ国の服は暑い国らしくふわふわ軽く通気性がいい。肌の露出も多く着付けは簡単だった。
纏うように身につけ、宝石のたくさんついたベルトで締める。素足に華奢なサンダルをはいた。
転ばないようにそろりそろりと慎重に歩いて続きになっているドアを開ける。
「本物の女神が降臨されたかと思いましたよ」
フロレンツの声がしてふわりと体がういた。
「フロレンツ王子」
「フロレンツとお呼びください」
抱き上げられ視線の高くなったユストを上目遣いにフロレンツが見上げる。そうするとヴァレヒトによく似ている。
「でも王子って呼びなさいって侍従さんに言われたから……」
「私がお願いしているのにユストはきいて下さらないのですか?」
じっと見つめられると落ち着かない。ヴァレヒトの上目遣いは単純に可愛いと思えるのにフロレンツは違う。どうして違うのかユストには分からなかったが、そわそわと視線をさ迷わせていると、
「照れているのですね。では、私の耳元で私にだけ聞こえるように言ってください。それなら、いいでしょう?」
耳にひそめた声が落とされる。
それも十分に恥ずかしい。でもあれは嫌、これも嫌ではフロレンツに申し訳ない。ユストはフロレンツの首に腕を絡め耳に唇を近づけた。
「……フロレンツ」
「ユスト」
ささやき返された。
「君はとても優しいですね。私のこんなわがままも、ご自分の気持ちを押さえて叶えてくださる」
「そ、そんなこと……」
鼓膜を震わせるフロレンツの声がくすぐったくて、ユストは豊かなたてがみにしがみついた。
「兄上ばっかりユストと仲良くしてずるいです」
抱上げられたユストの足にヴァレヒトが触れる。
「ヴァレヒトは毎日ユストに会っているのだろ。私はこうしてたまにしか会えないというのに」
「フロレンツ王子……、フロレンツはお仕事しているんだから仕方ないよ」
「ユストはヴァレヒトの味方なんですね」
フロレンツがしょんぼりと言うのてユストは慌てた。
「違うよ」
「えー、ユストは僕の味方じゃないの?」
こんどはヴァレヒトがぷくっとほほを膨らませる。
「そんなことないよ。ぼくはヴァレヒト王子もフロレンツも好きだから、どっちも味方だよ」
「ユストはヴァレヒトの名前を先に言うんですね……」
「だって僕とユストは仲良しだもん。ねえ、ユスト、僕のことも兄上みたいに呼んでよ」
「ダメですよ、ユスト。これは私だけの特別にしてください。ヴァレヒトのようにいつも君に会いに来たい気持ちを耐えている私のために。ね?」
ひそひそとささやかれる声はひそめた分重たく濃い。
「……ごめんね、ヴァレヒト王子、これはフロレンツだけの特別なの」
「えー」
ヴァレヒトの尻尾が垂れた。いじけたように尻尾の先で床を掃いている。
「二人ともいい加減にしないとユストが困っているよ」
いつの間に来たのかルトヴィクの声がした。
「あ、兄様」
ぴょんと飛び上がるように振り返ったヴァレヒトが満面の笑みでルトヴィクに飛びつく。
「ヴァレヒト、兄上を困らせてはダメだよ」
ルトヴィクは顔をほころばせてルトヴィクのほわほわしたたてがみをすいてやっている。その笑みにユストは驚いた。
ルトヴィクはユストを真綿にくるむように甘やかすフロレンツとも、コロコロと懐くヴァレヒトとも違って、とても冷ややかな態度をしていたので、あまり他人に興味がないのかと思っていたのだ。
「全員揃いましたね」
フロレンツの声にルトヴィクとヴァレヒトもユストに注目する。急に見つめられてユストはキョトンと二人に視線を返した。
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