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江戸っ子が 流れた先は 異世界で

 明治元年。  激動の幕末を経て、新たな時代が幕を開けたというものの、江戸に住む庶民の暮らしは以前と全く変わりなかった。  朝になれば「おはよう」の挨拶とともに、裏長屋の井戸端に人々が集まりだす。次第に通りが賑やかになってくると、やがて遠くから棒手振(ぼてふ)りの「シージミィー、アサリよーう」なんて威勢のいい声が聞こえてきて、長屋に住まう女房たちが(ざる)を片手に呼び止めるなんて光景も、江戸のころから大差ないものである。 「納豆ー、なっとなっと、納豆ーぅ!」  朝の光を浴びながら大声で納豆を売り歩くのは、棒手振りのである。  年は数えで二十歳(はたち)の満十九歳。元気だけが取り柄の青年だ。 「はっつぁん、納豆おくれ」 「毎度ぉ!」 「あんたも棒手振りが板に付いてきたね」 「おかげさんで。もうすっかり天職みてぇなもんよ」 「六兵衛(ろくべえ)さんの腰の具合はまだよくならないのかい?」 「一旦はよくなったんだけどさ。上野のお山でドンパチがあったときに、また痛めちまって」  話に上がった六兵衛は、ハチと同じ長屋に住む棒手振りの爺さんなのだが、この冬に腰を捻って以来、季節の変わり目や天候が悪くなると決まって、立てなくなるほど調子が悪くなる。  それでも徐々に回復し、以前のように動けるようになってきた……かと思った矢先に起こったのが、かの彰義隊で有名な上野戦争。慌てて避難をしたのはいいが、その最中に再び腰を痛めてしまい、今度こそ本当に(とこ)の住人と化してしまったのだ。  ハチは隣に住むよしみと言うこともあり、六兵衛が動けないときは代わって棒手振りの仕事を手伝うようになった。  ちなみに棒手振りは幕府による慈善事業の一種で、十五歳以下の子どもか五十歳以上の年寄りにのみ許された職業。だからハチは本来、棒手振りをやってはいけない年齢なのだが、お上に何か言われたら「六爺(ろくじい)の代わりだ」と言って、見逃してもらおうと考えていた。  もっともハチの場合、あまり伸びなかった身長と童顔のせいで、パッと見た限り十五そこそこにしか見えないから、お上に捕まる心配はなさそうだし、現に一度も捕まったことはないのだが。 「六兵衛さんも難儀だったねぇ。あの人、(ひと)(もん)だろ? 先行きが不安だろうね」 「けどさ、六爺がこの先動けなくなったとしても、うちの長屋連中で面倒見るって決めたんだ。先の心配は無用ってわけよ」  同じ長屋に住む者同士、みんなで助け合って生きて行くのが江戸のスタイル。  まだおしめも取れない赤子の時分、長屋の前に捨てられていたハチにとって、長屋はもはや実家も同然。子どものころは、六兵衛をはじめ長屋の人間に散々世話になってきた。  大家が長屋の親ならば、店子はみんなその子ども。自分を育ててくれた“きょうだい”たちにその恩を返すときがきた。  なぁに、それだけのことよ――ハチは笑ってそう言った。 「それじゃあ安心だね。六兵衛さんに、お大事にって伝えておくれ」 「あいよ!」  天秤棒を担ぎ直して、ハチは次の長屋へ足を向けた。 「納豆ー、納豆ー!」 「おぅ、ハチ公」 「毎度!」  そう答えて振り向いた先にいたのは、顔馴染みの吉蔵(きちぞう)である。  朝湯でもしてきたのだろうか。妙にこざっぱりとした()で立ちで、ほんのり上気した頬や額が朝日を浴びて、妙に艶々して見える。  濡れた手ぬぐいをブンブン振り回し、「いいところで会った」と小走りに駆け寄って来た。 「おう、吉蔵。おめぇも納豆欲要るのか?」 「今日はいらねぇ。その代わり、一つ頼まれちゃくれねぇか?」  そう言って懐から出て来たのは、表に「おきぬさま」と書かれた一通の文。 「これをへっつい長屋のおきぬちゃんに届けとくんな」 「(きち)の字……おめぇこないだ、常磐津(ときわづ)の鶴丸師匠に文を届けたばかりじゃねぇか」  常磐津とは浄瑠璃の流れを汲む伝統芸能で、江戸庶民……とりわけ男衆に人気の習い事の一つであった。  常磐津を教える者は江戸のいたる所におり、特に今川橋の鶴丸師匠と言えば元は柳橋の芸者をしていた年増で、引退した今もなお妖艶な色気が漂う美女として、名を馳せている人物だ。 「それがよぉ、鶴丸師匠は役者崩れと(ねんご)ろになっちまったって噂じゃねぇか。やっぱり女は清楚じゃなきゃいけねぇや」 「鶴丸師匠が駄目になっちまったから、今度はおきぬちゃんってわけか」 「そう言うこった。わかったらとっとと文を届けてくんな」  文と一緒に銭を押しつけると、吉蔵は「頼んだぜ!」と言って小走りで去って行った。 「そりゃあ届けろって言われたら、届けるけどよぉ。おきぬちゃんはこないだ、同じ長屋の大工の男と所帯を持つって聞いたんだけどなぁ」  吉蔵の二度目の失恋を予感しながらも、懐に文をねじ込む。 「けどまぁ、吉の字がどうしてもおきぬちゃんがいいって言うんじゃ、しょうがねぇ。それより、いちょう長屋のおしずちゃんに目を付けなくてよかったぜ」  ポチャポチャと愛嬌のある丸顔を思い浮かべて、ハチの鼻の下が長くなる。まだ恋心とまではいかないが、おしずちゃんがハチの心を占めていることは確かである。 「おおっと、こうしちゃいられねぇ!」  気を取り直し、なおも納豆を売り歩くハチ。  ほどなく全て売り切れて、最後の仕事に取りかかるため、へっつい長屋へと急ぎ向かった。  これが終わったら湯屋でも行ってサッパリするか……なんて考えていると、いつも世話になっている辻占売りの随運堂一斎(ずいうんどういっさい)が少し先を歩いていることに気付いた。 「おう、随運堂の。暫くぶりだな」 「なんだ、ハチか」  随運堂と呼ばれた男はクルリとハチを振り返り、姿を見るなり「うぅむ」と一声唸った。 「ハチ……おぬしまたもや悪い()に取り憑かれておるぞ」 「いぃっ? またかよ……」  実はハチ、お化けや物の怪に取り憑かれやすい(たち)らしく、定期的にお祓いをしなければ大病や大怪我に見舞われてしまうという、難儀な体質なのである。  昔は高い金を支払い、寺社で祓ってもらっていたが、ひょんなことから随運堂の窮地を救って以来、悪い()に取り付かれると彼が無料で祓ってくれるようになったのだ。 「そういや最近妙に肩が張るし、熱っぽいなと思ってたんだよ」 「早いところ祓った方がいい。だが儂もこれから急ぎの用でな。すぐに済ませてくるから、(うち)に上がって待っていておくれ」 「それじゃ、この文届けたら上がらしてもらうぜ」 「道中気を付けるのだぞ。特に今、おぬしに水難の相が見えておるでな。水には充分注意するように」 「おうよ!」  随運堂と別れたハチは先ほどよりも早歩きで、へっつい長屋へ急いだ。  何しろ随運堂の先見(さきみ)は滅法当たる。自分の身に災いが起こってからでは遅いのだ。 ――水難なんて堪ったもんじゃねぇ。早いとこ文を届けて、随運堂ん()に向かうことにしよう。  早歩きはやがて小走りになり、もうじき目的の長屋に到着……と言うところで「喧嘩だぁ!」と言う叫び声が耳に入った。 「何ぃ、喧嘩だと?」  火事と喧嘩は江戸の華。  気の短い江戸っ子は、何かあるとすぐに一悶着起こす気質があって、通りを歩けば喧嘩に出くわすなんてことも少なくはなかった。  そして喧嘩と聞いて血が騒ぐのが、江戸っ子の悪いところ。  ハチもまたその声に胸がウズウズし始めた。 「喧嘩はどこでぇ!」  声のする方へ飛んでいくと、橋の上で男が数人揉み合っていた。  周囲には見物人が押し寄せて、ワイワイキャーキャー姦しいことこの上ない。 「おぅ、てめぇら! 喧嘩はよさねぇかぃ!」  袖を肩まで捲り上げ、天秤棒片手にズイズイと近寄って行く。 「なんだてめぇは! 関係ないやつぁ引っ込んでろぃ!」  ドンと押されて吹き飛んだハチ。その拍子に欄干にバンとぶち当たったのだが、勢いはそれで止まらなかった。 「いっ?」  グルリと一転する景色。  目の前に青い空が広がる。  キャーッと誰かの悲鳴が聞こえて、フワリと浮遊感を覚えた。 ――あ、やべぇ。  落ちる。  そう思った瞬間、ハチの体は冷たい水の中にドボンと沈んでいた。  ガボガボと藻掻(もが)くたび、鼻から口から大量の水が入り込んでくる。 ――まずい!  このままでは溺れ死ぬかもしれない……ハチは瞬時に悟った。  一刻も早く水面に浮かび上がらなくては。  しかし藻掻けば藻掻くほど、水面は遠くなるばかり。  徐々に意識が遠退き始める。 『水には充分注意するように』  そう言った随運堂の顔が脳裏を(よぎ)る。 ――やっぱ随運堂の先見は、当り……やが……る……。  目の前が白く霞んで、これまでか……とハチは死を覚悟した。  しかしその時。  突如体がフワリと浮かんだかと思うと急上昇を始めたのだ。 「……っ!?」  グングン近くなる水面(みなも)。  頭上を照らす太陽の光がやけに眩しくて、ハチはギュッと目を瞑った。  ザバァッ!!  大きな音を立てて、ようやく水上に出た。  ゲホゴホと何度も咳き込みながらも、ここぞとばかりに新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。 「うへぇ、えれぇ目にあったもんだ……」  顔の水を両手で拭って立ち上がると――目の前に、巨大な男たちが立っていた。 「……いぃっ?」  見たこともない衣服を纏った男たちが、剣を構えてハチを睨みつけている。  しかも全員が白い肌に高い鼻、彫りの深い顔立ちをしていて、平坦面(へいたんづら)の江戸っ子とはえらい違いである。  しかも居並ぶ連中は皆、金や茶の髪をしており、見たところ黒髪の者は誰一人いやしない。  綺麗な青や緑の瞳が、ハチの動向を伺っていた。  江戸の町では見たこともない様相の男たち。  もしかして、これは。 「異人?」  噂に聞く異国人の姿そのものを持つ彼らに、ハチは呆然と見入るしかなかった。 「何者だ、お前は」  誰何(すいか)する声を無視して辺りを見渡すが、覚えのある風景がどこにもない。 「聞こえているのだろう? どうやって王都に入り込んだのだ」  とびきり大柄な男が、ハチの喉元に剣を突き付けながらそう問うた。 しかしハチはそれどころではない。 「なっ……」 「な?」 「……んじゃこりゃあああああああああ!! ここは一体どこなんでえええええええええええええ!!」  恐慌状態に陥ったハチにできたこと。  それは声の限りに絶叫するだけだったのである。  このときのハチは知らなかった。  自分が今いるのが、江戸ではない場所だということに。  ましてやここが日本でもないことに、このときのハチは気付いていなかった。  さらにハチは知らなかった。  ここが地球とは全く異なる世界であることに。  いわゆる異世界転移……日本では昔から“神隠し”と呼ばれる現象が自分の身に起こったことに、このときのハチは全く気付いていなかった。  そして。  目の前に立つ、金髪にアイスブルーの瞳を持った美丈夫と、男である自分がやがて恋に落ちる未来が待っているだなんてことに、このときのハチは全くもって気付いていなかったのである。

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