10 / 17

いただきます! 鬼の住み家で チキンソテー

 数十分後、ヘイスと共に消えたラドバウトが戻って来た。  後ろを付き従うヘイスは、グッタリした表情を浮かべている。 「ハチ、いい子にしていたか? 何か困ったことなど起きなかったか?」 「困ったこと? 誰も来やがらなかったし、何もございやせんでしたよ」 「そうか。それはよかった」  仏頂面が一転、晴れ晴れとした笑顔に変わる。  ハチが無事で心から安堵したらしい。 「これから飯を食って、マルセル殿のところへ向かおう。異世界人について、詳しいことがわかったらしい」 「へぇ」  と返答したはいいが、異世界人とやらがなんなのか、そして自分になんの関係があるのか、ハチには皆目見当も付かない。  しかも食堂へ行こうと言われたが、未だ足腰がガクガクしてまともに歩ける気もしないのだ。 「だんなぁ……」  生まれたての子鹿のように足をプルプル震わせて、涙目でラドバウトを見つめるハチに、彼は「クッ」と小さく呻いて口元を抑えた。  こうしたハチの仕草が、かわいらしく思えて仕方ない。 「おいら、なんだか歩けなくなっちまった」 「昨日少し無茶しすぎたからな」  一応その自覚があるラドバウト。ハチを抱き上げると食堂へ向かって歩き出した。  ハチたちが食堂に入ると、途端に小さなどよめきが起こった。  美しい貴婦人はもちろん、小さな子どもさえも塩対応の魔神ラドバウトが、見知らぬ子どもを抱きかかえて入室してきたのだ。しかもその顔にはニコニコと笑みまで浮かんでいる。  驚くなという方が酷であろう。  一方ハチはというと、食堂に充満するいい匂いに鼻がヒクヒク、口いっぱいに涎が溢れてきた。  ググゥと大きく腹が鳴る。 「昨日はホットミルク以外に何も胃に入れてなかったから、腹が減るのも当たり前だな。ヘイス、大急ぎで食事を持ってきてくれ」 「いつもの食でいいですか?」 「頼む」  ラドバウトがヘイスに指示を出している間、ハチは近くのテーブルをキョロキョロと見回した。  見たこともない食べ物を貪る男たち。力士よりも大柄な者ばかりだ。  聖バームスロット王国に住む男の平均身長は百八十センチ。対して江戸末期ごろの日本人男性は、平均身長が百五十五センチと、かなり小さい。その中でもさらに小柄なハチから見ると、ラドバウトを含めたそこにいる全員が、鬼か物の怪のように見えて仕方ない。 ――鬼の住み家みてぇだな。  ハチの背中がブルリと震えた。 「お待たせしました」  戻ってきたヘイスが、ラドバウトとハチの前にトレイを置いた。ホカホカと湯気の上がる料理を見たハチは、少し困った顔をした。 「さあ、冷める前に食べようか」  ラドバウトがそう声をかけたが、ハチは微動だにしないままトレイの食事を凝視している。 「ハチ? どうしたんだ?」 「ラドのだんな、こいつは一体なんですかい?」  トレイの上には丸パンが五つと鶏肉のハーブソテー、トマトと玉ネギのスープが乗っている。ラドバウトにとってはいつもの見慣れたメニューだ。  しかし江戸っ子のハチは未だかつて、こんな飯を見たことがない。  パンなんてものは江戸の町にはなかったし、肉を食せる店はまだまだ少なかったのだ。  なお余談ではあるが、実は肉食がタブーと思われがちな江戸時代でも「ももんじ屋」や、かの有名な歌川広重の浮世絵に描かれたことでも知られる「山くじら屋」などの名称で、肉を販売する店は存在していた。  “山くじら”とは猪肉のこと。 「お主、これは獣の肉であろう!」「いえいえ、お侍さま。これは山のくじらにございます」  なんて誤魔化しながら、猪肉を提供していたのである。  またももんじ屋は江戸近郊で採れた鹿や猿など、農害獣の肉を取り扱う店だ。  これらは全て滋養強壮の薬と称され、肉を食うことは『薬食い』と呼ばれていた。ゆえに値段もわりあい高額で、貧乏人のハチが手を出せるはずもなく。  随分小さい時分に酷い風邪を拗らせて、生きるか死ぬかの瀬戸際になったとき、長屋の皆が金を出し合って『薬』を買ってきてくれたのだ。  その甲斐あってか無事回復したハチなのだが、その後肉を食う機会には恵まれなかった。  そんなハチだから、皿の上にドーンと乗せられたチキンソテーを見て、これは一体何ものだ? と首を捻るばかりである。 「もしかして、こういった物も食ったことがないのか?」  ラドバウトの問いに、ハチはコクリと頷いた。 「普段はどんな食事をしていたんだ?」 「米の飯。それからおしんこ、味噌汁、それに焼いた魚なんかですかね」  コメだのオシンコだのはよくわからないが、魚だけは理解できた。 「ハチは魚が好きなのか」 「あたぼうでさぁ!」  ハチの話す言葉がたまに理解できないこともあるが、笑顔を浮かべている辺りよほど好きなのだろう、とラドバウトは考えた。  騎士団の食堂は肉がメインだが、街に出れば魚料理の店もある。今度そこにハチを連れて行ってやろうと、ラドバウトはこっそり決意した。 「魚ではないが、このソテーも美味いぞ。早く食ってみろ」 「けどラドのだんな。箸はどこにありますんで?」 「ハシ?」 「飯を食うなら箸が必要じゃございやせんか」 「それならフォークがあるだろう?」  トレイの隅に銀色の棒が見える。 「これがほおく(フォーク)ですかい?」 「そうだ」 「どうやって食うんです?」  まさかフォークの使い方まで教えなくてはならないとは……ラドバルトは軽い目眩がした。 「フォークはこう、刺して食う。……ちょっと待て、もしかしてハチはナイフも知らないのか?」 「ないふ」 「その調子だとわからないのだな。仕方ない。俺が切ってやるから、ちょっと貸してみろ」  ハチのトレイを引き寄せて、チキンを食べやすい大きさに切り分けるラドバルト。  その姿に、食堂内のざわめきがいっそう増した。 「ちなみにスプーンもわからないか?」 「すぷうん? あぁ、この匙のことですかい? いくらおいらでも、これくらいはわかりやすよ」  ようやくハチがわかるものが登場して、ラドバウトもホッと一安心である。  なんとか食事も済んで、満腹になったハチ。  食後の茶までペロリといただき、大満足だ。 「ハチは見かけによらず大食いなんだな」  小柄な(なり)をしていながら、団員たちと同じ量をあっと言う間に食い尽くしたハチに、ラドバウトもヘイスも驚きを隠せない。 「でもハチくん、食べるときはもっとよく噛んでゆっくり食べないと」  ヘイスはそう言うが、早飯早糞早算用(はやめしはやぐそはやざんよう)――つまり食事やトイレ、計算を早く済ませることは、江戸の職人や肉体労働者、奉公人にとって最も心掛けたいことなのだ。  棒手振(ぼてふ)りのハチにとって早飯は当然のことなのに、なぜヘイスはゆっくりなんて言うのだろう。合点のいかぬハチである。 「今度僕が、食事のマナーを教えてあげるよ」 「まなあ?」 「食べ方についてだね。ハチくんもこの国にいるのだから、マナーを覚えて損はないと思うんだ」 「へぇ……それはありがてぇことです」  しかしハチは、いつまでもここにいるつもりはない。  早いところ江戸に戻って、皆のところへ帰るのだから。 ――吉の字の(ふみ)、結局どっかに流れちまったようだから、また書いてもらわねぇと。  着物を脱いだ際に、懐にねじ込んだはずの文がなくなっていることに気付いた。  そればかりか納豆を売った代金までも、どこかへ行ってしまっていたのだ。 ――昨日は全部売り切れたから、あの金持って帰ったら六爺(ろくじい)喜んでくれただろうに……。  ガックリと肩を落とすハチ。 ――けどまぁ、金はまた稼げばいいか! いっぺぇ稼いで、六爺に滋養のあるもん食わしてやるんだ!  しかしハチのこの思いは永久に叶うことはない。  それを知った彼が絶望のどん底に落ちるのは、この後すぐのことである。

ともだちにシェアしよう!