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仕方ねぇ…… それなら腹を くくりやしょう

 ハチが泣いて手が付けられなくなってしまったため、一同は一旦解散することとなった。  ラドバウトはハチを抱えて、執務室奥のベッドに向かった。   「昨日からいろんなことがありすぎて混乱したか。体もまだ辛いだろうから、もう少し休むといい」  そう言ってハチの体をベッドに横たえた。 「……ラドのだんなは?」  ベッドに腰掛けるだけのラドバウトを見て、ハチが掠れた声で呟く。 「俺はこの後少し用があってな」  本当はずっとハチの側に付いていてやりたいところだが、いかんせんラドバウトは騎士団長。  団員たちの訓練や会議、書類仕事など、多忙を極める身である。 「一人で大丈夫か?」  ハチは無言で頷いて、「もう行っておくんなさい」と告げた。 「おいらちょっと、一人で考えてみてぇんで」 「そうか……わかった。何かあったら大声で叫んでくれ。どこにいても、すぐに駆けつけるから」  ハチは俯きながらも、小さな声で「ありがとうございやす」と呟いた。  哀れな姿に、ラドバウトの胸が痛む。  小さな頭をソッと撫でると、昨日から剃っていない月代(さかやき)が、掌の中でジョリジョリと音を立てた。 「じゃあ俺が戻るまで待っていてくれ」  ハチがコクンと頷くのを見て、ラドバウトは部屋を後にした。  後ろ髪引かれる思いではあるが、仕方がない。  とにかく急いで仕事を片付けてハチの元へ帰ろうと、足早に訓練所へと向かったのであった。 **********  ラドバウトが戻ったのは、陽もすっかり傾いた頃。辺りは既に、夕闇が広がっている。  思いのほか遅くなったことに、ラドバウトは内心激しく舌打ちをした。 ――本当ならばもっと早く、ハチの元に帰りたかったのに。  別れてからだいぶ時間が経った。  あのとき激しく泣いていたハチ。もしかしたら疲れて眠っているかもしれない。  そう考えながら執務室の奥に入ると、ハチはベッドの上にいた。 「……ハチ?」  まるで大量の本に埋もれるようにして、食い入るように本を読むハチ。  その背中がとても小さくか細く見えてて、頼りない身の上を物語っているようだった。 「ハチ、お前字が読めるのか?」 「へぇ……一応、読めやす」  この国では平民の識字率は低い。それは聖バームスロット王国に限ったことではなく、周辺諸国ならどこも似たり寄ったりだ。  ハチは自分を庶民と言っていた。  そんな彼が字を知っていて本が読めたことに、ラドバウトは驚きが隠せない。 「ところでこの本はどうしたんだ?」  ラドバウトの問いかけにもハチは頭を上げずに、小さな声で「ヘイスのだんなが……」とだけ答えた。  ラドバウトが不在の間に、ヘイスが様子を見に来たらしい。何か欲しいものはないかと尋ねられ、ハチは本を頼んだのだとか。 「なぜ、本を?」  しかもここにある全て、マルセルが用意した異世界人に関する文献のようだ。 「おいら、知りたくて……」 「異世界人のことをか?」 「……帰る方法を」  ハチはなおも頭を上げずに、ポツリ呟く。 「それで、帰る方法は見つかったのか?」  力なく、フルフルと頭を二度三度横に振るのを見て、ラドバウトは胸がギュッと潰れる思いがした。 「ショーゴさまとやらも、初めは帰る方法を探してたらしいんですけどね。どうしてもそれが見つけられなくて、どみにくすって人の嫁になったって」  その話はラドバウトも知っている、聖バームスロット王国で有名な物語の一つである。  ショーゴがこの国に来たのは十三歳のころ。彼はハチとは違って、空から落ちてきたらしい。  その後、ドミニクス王の庇護を受けながら数年間帰る方法を探していたのだが、それは結局見つからなかった。  この地に骨を埋める覚悟をした彼は、王の伴侶になって聖バームスロット王国を支えたとされている。 「この本に」  ハチは傍らの本をラドバウトに示した。 「この世界とショーゴさまの世界は、全然別の場所にあるってことがわかりやした。そんで、なんかの拍子にたまたま“道”が繋がって、ショーゴさまはそこに落とされたって書いてあったんでさ。空と川の違いはあるけど、おいらと全くおんなじですね」 「……そのようだな」  しかしその道は、いつもそこにあるわけではない。  なんらかの原因で偶然繋がるだけで、一度閉じてしまうと二度と出現しないのだ。  今回ハチはプールに流されてきたわけだが、もう一度プールに行ってみたところで、既に道は消えている。つまりそこから江戸に戻れることはない……ということなのだ。 「ショーゴさまのほかにも何人か異世界人がいたって」 「あぁ。聖バームスロット王国にはなぜか、数百年に一度の割合で異世界人が迷い込んで来るらしい」 「みんな、帰れなかったって」 「あぁ……そうだな」  元の世界に戻れないことがわかった異世界人は、この地で生きることを決意する。  為政者や権力者の庇護を受ける者、街に降りて平民として自由に暮らす者、それは人それぞれなのだが。 「ハチ……お前はどうしたい?」 「わからねぇんです」  ハチは鼻水をグスンと啜って、ようやく顔を上げた。  ずっと泣いていたのだろう。目元が涙で濡れて、周囲が真っ赤に腫れ上がっている。  それでも健気に笑顔を浮かべると 「突然のことで、おいらもまだ混乱しきってるんでさ。だからもうちょっとだけ、考える時間が欲しいんで」  と気丈に答えた。 「ああ、時間はたっぷりあるんだ。じっくり考えるといい」  ラドバウトはハチの頭を撫でると、飯に行くかと提案した。 「腹が減ってると考えも纏まらないものだからな。たらふく食って、ゆっくり休んで、それからじっくり考えるといい。俺の馴染みの店があるから、そこに行こう」 「へぇ。お言葉に甘えさせていただきやす」  ラドバウトがハチを抱きかかえると、彼はすぐに首元にキュッと縋り付いた。  温かな体温。ユーカリを思わせる爽やかな体臭。小さく響く鼓動。  伝説の異世界人とはもっと神聖で傑出した人物だと想像していたが、今腕の中にいるハチは小さくて、あまりにも頼りない。少し無茶をすればすぐにでも命を落としそうなか弱さだと、ラドバウトは感じた。 ――この子がこの世界で何不自由なく生きていけるように、俺が守ってやろう。  庇護欲を大いにそそられたラドバウトは、静かにそう決心した。  二人はラドバウトがよく行く店に立ち寄って、そこで心ゆくまで飲み食いをした。  ラドバウトは蒸留酒を飲んだが、ハチは果実水である。 「おいらもそれ飲んでみたい」と言うハチに「子どもはまだ早い」と答えるラドバウト。  自分は子どもじゃないとハチは訴えたが、ラドバウトは「はいはい。子どもはみんなそう言うんだ」と軽くいなしてまるで取り合わない。  プーッと膨れて悪態をつくハチ。まるで先ほどのことがなかったかのような振る舞いに、ラドバウトもほんの少しだけ安心した。  店を出るころにはすっかり暗くなっていて、天上には星がキラキラと煌めいている。 「……ここにも星はあるんですねぇ」 「ハチの世界にも星はあったのか?」 「あたぼうでさぁ。夜は満天の星が見えて、そりゃあ綺麗なもんでした」  まだ電気も外灯もない江戸時代。  江戸の市中にいても、空を見上げれば美しい星を見ることができたのである。 「六爺(ろくじい)や長屋の連中と、たまに夜鳴き蕎麦を食いに行くことがあって、帰り道にこう、空を見上げるとね。見えるんですよ、星空が」  見上げた先には満点の星。無数の光がハチとラドバウトを優しく照らしている。 「江戸の星もここと大して変わらねぇ。もしかしたら江戸とこことは、あの空で繋がってるんじゃないんですかねぇ」  寂しげに呟くハチに、ラドバウトは思わず「帰りたいか?」と尋ねてしまった。  帰れるはずがないと知りながら。  それでもハチの寂しげな横顔を見たら、問わずにはいられなかったのだ。 「……帰りたくないと言えば嘘になりやす。けど、どうやったって帰れねぇってのがわかったんだ。腹をくくるしかねぇでしょう」 「ハチは……強いのだな」  もしも自分が突然異世界に流されたら、ハチのようにすぐ冷静に受け入れることができるだろうか……ラドバウトは考えた。 ――いいや、無理だな。  自分なら絶対に取り乱して、最後の最後まで足掻き続けることだろう。  しかしハチはそれをしなかった。  数時間前まで泣きじゃくっていたとは思えぬほどの落ち着き払った様子に、ラドバウトは驚嘆せざるを得ない。 「おいらは」  ハチの声が、夜の通りに小さく響いた。 「強いわけじゃねぇんです。ただ江戸っ子ってぇのはみんな、突然大切なもんをなくしてもいいように、心構えができてるんでござんすよ」  幾度も大火に見舞われた江戸の街。  炎が上がるたびに、多くのものが失われてきた。  家も財産も、人の命さえも。  だから江戸っ子はいつ火事が起こってもいいように、余計なものは持たない。  一度火事に見舞われて暫く落ち込んだとしても、すぐにまた生き残った者たちが手を取り合って、笑顔で復興に取りかかったのである。 「今までの暮らしは全部消えちまったけど、命がなくなったわけじゃねぇ。それに江戸にいる長屋の連中だって、死んじまったわけじゃなし。会えなくはなったけど、きっとこの空を渡った先のどっかで、みんな無事に暮らしてるって思えば、耐えられるってもんでさぁ」  妙にすがすがしい口調で語るハチ。  しかしその声は微かに震えている。 「ハチ……」  ラドバウトはハチを強く抱きしめた。 「無理に強がるな。辛かったら泣いてもいいんだぞ」 「けど」 「腹に溜まった思いを全部吐き出した方が楽になる。俺の前では無理に明るく振る舞うな」 「ラドのだんな……」  ハチの声が、涙に濡れる。  グスッと鼻を啜る音に次いで、小さな嗚咽が聞こえてきた。 「おいら、本当は六爺に会いてぇんです。長屋のおみよばあさんにも、鳶の壮助にも、吉蔵にも、おしずちゃんにも……こんなところに一人流されるなんてあんまりだ。皆と離れたくなかった……会いてぇ……会いてぇよぉ……」  嗚咽は次第に大きくなって、息をするたびに小さな体が大きく震えた。  会いたいと言う声が、次第に泣き声に変わる。  胸の中で号泣するハチを、ラドバウトは抱きしめることしかできないでいた。

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