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憐憫
斎木についての不満は、ユキを抱かないこと以外にもある。
それは、親友や、その弟妹から連絡が入ると、すぐに帰ってしまうことだ。
やれ熱が出た、やれお腹が痛い、やれ怪我をした。
生活費を稼ぐために仕事を抜けることができない親友のため、斎木はそそくさとユキを残してこの家を出てゆく。
ユキに使われるために雇われたオモチャのくせに、ユキをまったく優先しない男に、ユキの苛々は募った。
「アンタとその親友って付き合ってんの?」
ある日、つっけんどんな口調でユキは斎木へとそう問いかけた。今日もまた、スマホに連絡があり、斎木はそそくさと帰ろうとしたのだった。
短い髪をがしがしと掻いて、男が軽く眉を上げた。
家庭教師、という建前を斎木はいつも、律義にまっとうしようとする。だから今日も、テーブルの上には中学一年生のテキストが広げられていた。
ユキは小学校の途中から通学をしていない。十二歳のときに父が亡くなってから五年、ロクに勉強もしないままこの部屋で過ごしてきたので、同年代の学力には遠く及ばないのだった。
このテキストは兄が用意したと斎木は言っているが、真偽のほどは定かではない。ユキにとってはよく理解できぬ問題が並ぶそれを、乱暴に閉じて。
「答えて」
とユキは横柄に言った。
どれだけ凄んだところで、ユキの声は危ういような掠れを孕み、薄い玻璃が割れるような高さのままだ。
声変わりを迎える前に、と父親に性器を切られたせいで、ユキの性別はどこをとっても曖昧になっている。
唇の端で、斎木が苦笑した。
「俺が居ないと、あいつはダメだからな」
曖昧な答え方を、斎木がする。
ユキは眉を寄せて、男を睨んだ。腹の奥に込み上げてきた衝動のままに、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。
「アンタは可愛そうなひとが好きなんだ!」
口角を曲げて、ユキは吐き捨てた。
「アンタが居なきゃダメになるような人間が好きなんだ!」
掴み上げたテキストを、男に向かって投げつける。太い腕が咄嗟に顔面をガードして、バサバサと派手に広がったページが床に落ちた。
それを拾おうと身を屈めた斎木の手を、靴下の足で踏みつけて。
ユキは男を見下ろした。
「ユキの方が、可愛そうだよ」
男でも女でもない声で、そう告げて。
ユキはワンピースのボタンを上から順番に外してゆく。
「他の誰よりも、ユキが可愛そうだよ」
やわらかな生地を、するりと肩から脱ぎ捨てた。中に着ていたキャミソールも、頭から引き抜いて。身に着けているものはひらひらのレースがついたショーツと、靴下だけの姿になる。
ユキは笑いながら、下着に手を掛けた。左右の腸骨の下辺りにはリボン結びになった紐が垂れている。
「先生」
「おまえのその癇癪 は、ホルモンバランスの乱れだ。ちゃんと病院にかかったほうが」
「先生」
無粋なことを話す唇に、指を当てて黙らせ。
ユキは左右の紐をひっぱり、はらり、と下着を取り去った。
「可愛そうなユキを、慰めて」
「勇樹。病院へ行け」
「ユキだよ、先生」
ユキは両手で男の頬を包むと、自分の方へと引き寄せた。
斎木がのそりと立ち上がり、ユキに覆いかぶさるようにして顔を近付けてくる。キスをされる。そう思って目を閉じた。
「利樹が心配している」
降ってきたのは唇ではなくて、兄の名前だった。
ユキは薄目を開けて男を睨んだ。いつの間に、兄を利樹と呼ぶようになったのか。こそこそと、ユキの話でもしているのだろうか。
「お兄ちゃんから、ぜんぶ聞いたんでしょ?」
そう、決めつけて。
ユキは爪先立ちになり、ユキと目線を合わせている斎木の厚めの唇へと、ちゅ、とキスをした。
「お兄ちゃんが心配してるのは、ユキじゃなくて、自分の罪を責められることだよ」
笑いながら、そう言って。ユキはもう一度、男と唇を合わせた。
「ユキの方が、可愛そうだよ」
囁いた、ユキの語尾が掠れた。その危うい音の響きに誘われるように、斎木の方から唇を寄せてきた。
ちゅ、と吸われるその唇の隙間に、ユキは舌を捻じ込んだ。
「そうだな」と男が吐息の合間に呟いた。
「おまえが一番、可愛そうだ」
男の腕が、裸の背を抱いた。
軽々と抱えられてベッドまでの距離を移動する。
ユキはこの日、斎木に抱かれた。
男でも女でもないユキの体を。
斎木は丁寧に開いた。
彼が親友よりもユキを選んだ、という事実に。
ユキの胸は、甘く満たされた。
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