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ドアの隙間

 利樹と話をしろ、と斎木が言う。  苛立ったユキが物を男に投げつける。その腕を捉えて、男の胸に抱きしめられる。  ユキが落ち着くまで、斎木の抱擁はほどけない。  口論は増えた。それ以上に、抱かれることも増えた。  斎木は利樹とユキの関係を修復しようとしている。それがユキには苛立たしい。 「お兄ちゃんだって、ユキのことなんかもう、要らないよ」  ワンピースの裾を握り締めて、ユキはそう吐き捨てた。  確かめてみるか、と斎木が言った。  ユキはそれを、鼻でせせら笑った。 「できるもんなら、してみれば」  ユキの言葉に、斎木が動いた。  男の腕が上がった、と思った瞬間。  パン、と頬を張られた。  容赦のないちからに、ユキの体が横倒しになる。  痛みよりも突然の暴力に驚いて、ユキは茫然と男を見上げた。  斎木が、大柄な体でのしのしと歩き、部屋の扉を少し開いた。  ユキは限界まで見開いた目にそれを映し、慌てて起き上がろうとした。しかし、戻ってきた斎木に腕を掴まれ、ベッドまでの距離を引きずられる。 「し、閉めてっ! ドア、閉めてっ!」  ユキは暴れた。バタつかせた足が、椅子にぶつかりガタンと倒れた。  ベッドへと引きずり上げられ、常にない乱暴な動作で押し倒される。ビリリと派手な音を立てて、ワンピースの生地が破かれた。ものすごいちからだ。  しかしユキは、斎木の狼藉(ろうぜき)に意識が回らない。  男の体の向こうに、。  ポカリと口を開けた、ドアの隙間……。  そこから、利樹の目が……。  兄の目が、こちらを覗き込んでいるのではないかと思えて。 「うわあああああっ」  ユキは金切り声を上げた。必死に斎木の体を押しのけ、ドアを閉めに行こうとする。  しかし、男はびくともしない。ユキを軽々と抑え込み、また手を振り上げた。 「どけっ! どけっ! ドアを閉めるっ! どいてっ!」  髪を振り乱して叫んだユキの頬を、バシっ、とまた男のてのひらが打つ。 「いやだっ、いやだっ! はなしてっ」  叩かれたせいでうまく動かない唇を、それでも無理やりに動かして。ユキは泣いた。  隙間は、恐ろしい。  利樹が覗いている。  ユキがどれほど泣いても、兄は部屋に入っては来てくれない。  たすけて、とユキが手を伸ばしても。  懇願するユキを拒むように。いつも。  向こう側から、隙間は、閉じられるのだ。  これ以上は、耐えられない、と思った。  性器を切断されたユキが、父に最初に辱められた日。  開いているドアを見て、ユキは。  もうこれ以上、向こう側から閉じられるドアを、見たくなくて。  これ以上兄に、拒まれたくなくて。  自分から、その隙間を閉じたのだった。  たすけて、と言いたくない。隙間に向かって、手を伸ばしたくない。  利樹が来てくれるはずはない。  けれど。  三度(みたび)、斎木の手が振り上げられた。  今度はグーの形になっていた。  殴られる。  殴られる。  ユキは唇を震わせた。 「いやだぁっ! た、たすけてっ」  掠れた悲鳴が、喉から漏れた。その瞬間。  バタン、とドアが動いた。  隙間が……大きく開いて。  そこから金髪を揺らして駆け込んで来る兄の姿が、見えた。 「やめろっ!」  伸びてきた、利樹のひょろりとした手が。  斎木とユキの間に割り込んだ。  そしてユキは……何年振りかに、兄の手に触れた。  気付けばたくさんのピアスのついた耳が、目の前にあった。  利樹に、抱きしめられているのだった。  茫然と、ユキは目を見開いた。 「ちゃんと、助けに来たじゃないか」  低く、平坦な声で斎木がそう言って。ほんの少し、笑った。  頬がじんじんとしている。痛みのせいで、涙が滲んだ。 「要らなくなんて、なかったな。おまえらはもっと、話をした方がいい」  くしゃり、とユキの頭を撫でた斎木の手が、そのまま頬へとすべってユキの零した涙を拭った。 「痛かったか? 悪かった」  謝罪する男の顔を、ユキは見つめた。瞬きをすると、またぼろりと涙がこぼれた。 「勇樹」  ピアスが揺らめくように光って、ユキの目を射た。身じろいで顔を捻ると、ユキを抱きしめていた利樹も、泣いていた。 「ごめんな、勇樹」  なにに対するごめんなのか判然とせずに……けれど、兄の声はユキの全身を揺らした。 「お兄ちゃん……」  ユキの喉から、声変わりを迎えることがなかった危うい音が漏れた。  利樹が目元を歪めて、またユキをきつく抱きしめた。  ユキは……夢の中にいるかのような思いで、兄のピアスと斎木の顔を交互に見つめた。 「……先生」 「なんだ」 「ユキの傍に居てくれる?」 「どうした、急に」 「ユキが可愛そうじゃなくなっても、居てくれる?」  ユキの問いかけに、男がくくっと声を漏らして笑った。 「そうだな」  他愛のない相槌とともに、やわらかな仕草で髪を撫でられる。 「友達よりも誰よりも、ユキを選んでくれる?」 「そうだな」 「なんで?」 「……俺は、俺が居なきゃダメな奴が、好きなんだ」  可愛そうな人間が好きだという斎木が、ユキを抱きしめる利樹ごと、太い腕であたたかな抱擁を、してくれた。  ユキは涙で滲む視界に、開きっぱなしのドアを映して……。  隙間も、開いてしまえば怖くはないのだと、そう思った……。

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