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第6話

私有地、と書かれた車一台の幅の、木々に囲まれた道を進むと、突如として赤い欄干が現れる。 さらさらと流れる小川の上にかかるゆるやかな山なりの橋。 手入れの行き届いた庭木や季節の花たちの咲く趣のある庭の先には、古い洋館のような建物が川を挟むようにして聳え立っている。 ここが淫花廓… まるで時代劇のセットの中に飛び込んだような非現実的な景色に、升麻はあちこちに目を走らせながら歩いていた。 とにかくどこもかしこも美しい。 遠くに見える山嶺さえも、この淫花廓の世界観を演出する一部に見えるほどだ。 「懐かしいな」 升麻の隣を歩いていた男が感慨深いため息と共にぼそりと呟いた。 しかしすぐに升麻の視線に気づくとバツの悪そうな顔をする。 「あ…すみません…よく先代と一緒にこの道を歩いたものですから」 男は迫間(さこま)という運転手だ。 亡くなった升麻の祖父が社長に就任した頃からずっと専属運転手を勤めている。 升麻も小さい頃から病院や学校への送り迎えなどでたびたび世話になっていた。 年齢的に祖父と同じくらいの初老だが、彼の実直勤勉さには祖父も並並ならぬ信頼をおいていたし、実際、信用できる数少ない人物の一人だとも話していた。 きっと恐らく誰よりもそばで祖父を支えてきのだろう。 祖父が他界してからは升麻の専属運転手を勤めてくれているが、いつもどこか悄然とした空気を漂わせていた。 物静かな性格だからだろうと思っていたが、それは思い違いだったことに気づく。 「祖父はどれくらいの頻度で通っていたんですか?」 升麻の質問に、迫間が顔を綻ばせた。 「月に三度ほどでしょうか。多い時は一週間に一度は通われてましたよ。プライベートでも、お仕事でも」 「迫間さんも一緒に?」 「いえ。私のようなものは本来ならこの戻り橋を渡ることすらできません。先代の送迎のために特別にここまで入らせてもらっていたんですよ」 懐かしいな… 迫間は再び呟くと、どこか遠い眼差しで空を見上げた。 シワの刻まれたその横顔は、憧れの人を思うような切なさと憧憬を滲ませている。 亡くなってもなお、こうして人の記憶に残ることができる。 祖父はそれだけ力と影響力があったことを改めて知った。 そして自分にはそれらが全く備わっていないことを思い知らされる。 人が人を偲ぶ気持ちは決して悪いことではない。 だが亡くなった祖父に対する周囲の気持ちを知ると、祖父と自分の間にとてつもない壁を感じてどうにも心がついていかなくなるのだ。 美しい庭を進むと、つきあたりの長屋門の前で二人は足を止めた。 「あの…本当に良かったのでしょうか?」 ほとんど薬で埋め尽くされた荷物を受け取ろうとした時、迫間がおずおずと口を開く。 「申し訳ございません。運転手の身分でこんなことを言うのは差し出がましいとは思うのですが…会社をあの方お任せするのは些か不安で。先代は升麻様にと切願されておりましたから」 迫間の言葉に升麻は小さく微笑むとため息をついた。 「…そうですね。きっと祖父はがっかりしているだろうと思います。でも、伯父も会社を潰すようなことはしないはずです。それはあの人の首を締めるのと同じですから」 しばらく会社を休みたい。 ここへ来る前、升麻は会社を引っ張ってくれている人たちに申し出た。 そして、留守中ミサキインテリアの経営を伯父に任せたいと告げたのだ。 当然反対するものもいた。 せっかく先代の遺言どおりに立ててやったというのに裏切りだ、責任放棄だと散々陰で言われていることも知っている。 しかし伯父が経営者として上手くやってくれたら、きっと彼らも考えが変わるはずだ。 遺言に縛られて会社を潰さずにすんだと、伯父を新たな社長として認めてくれるだろう。 そのためには升麻は一度姿を消す必要があった。 伯父がみんなに認められるまでの間、会社の人間の家族の目にも誰の目にも届かないところへ。 そのためにこの淫花廓へやってきたのだ。  

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