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第8-3話
「矢澤が少し話したい事があるみたいだから、後で弓弦の家行くわ。」
「少しだけなんでしょ?いいよ。折角俺も予定ないんだし、終わるまで待ってる。」
「そうか……?」
風が吹くと顔に当たって痛みを感じ、厚めのジャケットがいる寒さになった。すっかり冬の季節だ。今日は卒論の提出期限が近づいてきているので、弓弦と共に図書館に来ていたら、矢澤からメールがあり、『会って話がしたいので、東棟の裏庭に来てください』と書いてあった。
弓弦はほぼ毎日友人と食事会に行っていたが、みんなも卒論やら就活やら忙しいのか食事に誘われない日が少しずつ増えてきている。比例して愚痴も減ってきてるので万々歳だ。今日もお誘いがなかったので、スーパーで鍋の材料を買って弓弦の家で食べようということになっていた。
「場所東棟かぁ…。ここから正反対だなー。」
「でもスーパー行くなら近いよ。」
「あ、そっか。じゃあいいや。」
一緒に東棟に向かい、弓弦は棟の正面玄関横のベンチで座って待つ。俺は弓弦に軽く手を振って、すぐ近くの裏庭に向かった。
「お、いたいた。矢澤〜。」
「………ま、松元さんっ。」
矢澤は深くお辞儀をしてくる。
「わざわざどうした……ってか顔赤いな?熱?それとも寒い?」
「あ………、」
矢澤の顔が赤みを帯びていたので不安になり、頬に触れると更に赤みを増した。ん……?この反応………。もしかして……。
「だ、大丈夫です……っ!」
「そっか……。」
いつもと違う雰囲気の沈黙が2人の間に流れる。過去に女子から呼び出されて類似した雰囲気を経験したことがあった。
「ま、松元さんっ。」
「うん?」
「きゅ、急でびっくりすると、……思うんですけど……っ、お、俺……っ、松元さんの事が………好きです……っ。」
「…………。」
予感は間違ってなかった。顔を真っ赤にして、緊張で身体がフルフル小動物みたいに震えているのが申し訳ない。
「………そっか。ありがとう。」
「あ、あの、Ωである僕が、言っちゃいけないと、思ってたんです……っ。で、でも松元さん、大学にも、ほ、殆ど来なくなっちゃうし、接点もなくなると思うと……、悲しくなって……っ。気持ち、伝えたいって、思って…!」
「そうなんだ。」
今まで何となく熱い視線で見られていたが、バース性も違うし、恩人として見てくれているんだろうと思っていた。自分を卑下する言い方からして、かなり勇気を持って行ってくれたんだろう。答えは決まっていたけれど、しっかりと間を置く。
「………矢澤君。」
「………はい。」
「気持ちは凄く嬉しいけど、可愛い弟みたいにしか見てない。だからごめん、付き合えないです。」
「…………っう……。そ、そうですか……っ」
嗚咽を漏らしながら、ポロポロと涙が出てきていた。可哀想で思わず抱きしめようとするが、そっちの方が悪いと思い、少し近づいて頭を撫でるに留まる。
「ぼ、僕!……は、初めて、こんなにっ、優しくしてもらって……っ!ま、松元さんしかっ、いないって思って……っ!」
「……矢澤はめっちゃ可愛いし、いい子だから本当に大事にしてくれる人が現れるよ。」
「う、ふっ……うぅ………。」
泣き続けるのでどうしたものかと困った。
「ぼ、僕……っ、初めては……、好きな人がいい……っ。」
「…………そうだよな。」
失恋した自分と矢澤が重なり、同情的な気分になってきた。でも矢澤とはヤれないだろう。弓弦に調教されすぎて、多分タチは出来ない。そしてもし身体的にヤれたとしても、弓弦にバレた時の事を考えると俺の身は危ない。
「……松元さん……っ、思い出だけでもいいので……、ぼ、僕とエッチ、して下さい……。」
「……………ごめん。」
「ふっ……っううぅ……っ」
俺の返事を聞いて更に酷く泣き続ける矢澤が痛々しい。俺もこんな感じだったのかな。痛いだろうな。苦しいだろうな。俺が感じだような痛みを感じているんだろう。
矢澤がバッグの中をゴソゴソと探し始めた。涙を拭くハンカチでも探してるんだろうと思い見守っていると、細長いペンのようなものを出すのが見える。
「……ぼ、僕とエッチして、下さい……っ!」
矢澤は自分自身の太ももにペンのようなものを突き刺した。カチッと小さな音がする。よくよくそのペンを見ると、性教育の授業で見たことがあった。
(Ωのヒートを抑える薬だよな……?何で今……?ヒートになりそうだったのか?)
曖昧だがペン型は即効性があるタイプの薬だったと思う。急にヒートが来たのだろうか。Ωのヒートは近くで見たことがないので不安になり声をかける。
「ヒートになりかけたのか……?大丈夫か?」
するとふわりと初めて嗅ぐ匂いを鼻腔が捉えた。甘さのある花のような、でも重くはなく、いくらでも吸い込みたくなるようなとても良い香り。
矢澤は肩で息をし始めて、顔は先ほどの比じゃない程に赤く火照ってきた。どんどん香りも強くなる。
「お、おいっ!大丈夫か?!さっき薬打ったなら、どれぐらいで効果あるんだ?!」
Ωの発情期なんて、βの俺には他人事と思っていたので、授業で習ったはずの事もうる覚えで狼狽えてしまう。息が荒く苦しそうなので、とりあえず身体をさすって宥 める。
「はっ…、はっ…、な、何で……?」
「え?」
矢澤が俺を潤んだ瞳で見つめてくるが、その瞳は困惑している。
「べ、βでも……っ、効果あるはずなのに……っ」
「え?効果?」
矢澤の言っている効果が何を示しているのかわからなかった。抑制剤の効果って事?あ。確かβでもヒートに当たれば欲情するって習った。でもいい匂いとは思うけど、俺は何ともない。注射の効果が現れてるってことでいいのか?でも匂いは濃くなる一方だ。
「とりあえず、俺は大丈夫みたいだから、矢澤落ち着け。薬が効いてくるはずだから。」
「はっはっ……、うぅ……っうわぁああ!」
中腰の姿勢から、矢澤は叫ぶように俺を突き飛ばし、地べたに丸まってしまった。俺は突き飛ばされた衝撃で尻もちをつく。訳がわからず唖然としていると後ろの方で声が聞こえた。
「雪雄……っ!」
「え、あっ、弓弦!」
走ってこっちへ向かっている弓弦の姿が見えた。待て。弓弦はαだからΩの匂いはヤバいんじゃ……!
「弓弦来ちゃダメだ!矢澤がヒートになってる!」
「………………え。」
弓弦はピタリと止まった。止まってくれたことにホッと安心するが、弓弦は再びこちらに向けてゆっくりと歩み寄ってくる。
「え、え?!弓弦!ダメだって!お前αだろ?!」
俺の言葉は無視され、どんどん矢澤と俺に近づいてくる。ど、どうしたらいいんだ。もうヒートに当てられたってことか…?薬は効いてないのか……!?
「なーんだ。」
真冬のような感情のこもってない冷たい声が聞こえた。弓弦は自身のショルダーバッグの表ポケットから矢澤が持っていたペン型の薬と色違いのペンを出す。そして無言で丸まった矢澤を遠慮なく手で突き飛ばすように転がし、仰向けにさせていた。俺は弓弦が矢澤を襲おうとしていると思い、止めに入る。
「ちょっ…!弓弦っ!無理矢理はダメだ!」
「あっ…!あああ……つ!」
「雪雄だと期待したのに最悪。」
「は?」
俺?どういうことだ?その疑問を口にする前に弓弦は乱暴に矢澤の服を捲ると、手に持っていたペン型の薬を腹部に突き刺した。
「ぐふっ」
「ゆ、弓弦っ!」
薬を持っていなかったら、ただ腹を力一杯で殴りつけるような、暴力的な仕方に冷汗をかく。同じペン型なら抑制剤だろう。でも1本のペンでも矢澤は悶え苦しんでいるのに、2本も投与して大丈夫なのか俺は不安になってきた。
「ゆ、弓弦!さっき矢澤自分で抑制剤打ってたぞ!何回もして大丈夫なのか?!」
弓弦はαだから、Ωの対処や薬も俺より知っているはずだ。そう思って矢澤の足元に落ちていたペン型の薬を拾って弓弦にみせると、ゴミを見るような冷たい目線でペンを手に取る。
「これ抑制剤じゃなくて、強制発情薬だよ。」
「…………は?」
「雪雄に襲って欲しかったんじゃない?ははっ、残念ながら不発だったみたいだけど。」
唖然としている俺の目の前に、笑いながら強制発情薬を投げ捨てると、弓弦は矢澤の耳元で何か囁いていた。すると矢澤はびくりと痙攣するように身体を震わせる。
「よし、雪雄。こいつ放っておいたら勝手にヒート落ち着くから帰ろ。」
「は?!こんな苦しそうなのに放っておける訳ないだろ!」
「自分で強制発情薬打ってるんだから、自業自得だよ。治まる前に誰かに襲われるかもしれないけどね。」
「馬鹿っ!尚更放っておけるか!俺保健室連れていくっ。」
「鍋の材料買って帰るんでしょ?」
「買って帰るよ!矢澤連れて行った後にな!これは譲らないからな。嫌なら先に材料買って帰ってろ!」
人が目の前で苦しんでるのに、鍋の材料を話しに出す気が知れない。やっぱり弓弦はおかしい。自業自得でも俺を思ってくれてて、必死に行動してくれたのだ。悪い奴じゃないし、いつも頑張ってるのも知ってる。
不穏な沈黙の後に、弓弦が溜息をつく。
「……まぁいいか。効果は出てきてるってわかったし。」
「あ?何か言ったか?」
「いいよ。俺もついて行く。」
「え………まじかよ。珍しい……。」
弓弦がぼそぼそと言った声は聞こえなかったが、ついて行くと言ってくれた為、急降下していた株は少し持ち直した。
矢澤は弓弦に触られるのを怖がり、俺がおぶって歩いていく。おぶっていると急に重くなり、矢澤は俺の背中で失神したみたいだった。失神した人も見たことがなかったのでかなり慌てふためいたが、弓弦がよくあるから大丈夫と言ってくれたので冷静になって保健室へ向かう。
「なあ。弓弦はαなのにヒートに当てられなかったよな?匂ってなかったの?」
「匂ってたよ。匂いで駆けつけたからね。でもあれぐらいなら嗅ぎ慣れてるから当てられることないな。いざという時はα専用の抑制剤もあるし。」
「え。嗅ぎ慣れると我慢出来るの?」
「出来るんじゃない?俺以外のαは知らないけどね。」
「すげえな……。」
αならΩのヒートは強烈な性衝動を駆り立てられるらしいのに、それを飄々 と言ってのける弓弦を少し尊敬した。
「ねぇ。」
「なんだ?」
「雪雄がΩになったらどんな匂いするのかな?」
「俺がΩ?」
そういえば付き合って最初の頃Ωになりたいなんて零したことがあったのを思い出す。
「あの時は感傷に浸ってたんだよ。なれる訳ないんだから俺の言った事は忘れろ。」
「……………ふふっ」
「何で笑ってんの?」
大きな瞳が弧を描いて微笑んでいる。久しぶりに仄暗い笑顔で俺を見てきた。
「早く運命の番になりたいね。」
「………はあ。またかよ。本当α様はそのネタ好きだな…。」
弓弦からも飛翔からも言われすぎて、感傷が過ぎると煩わしさしか残らなくなった。βの俺にはその素晴らしさは一生わかりませんので、もう言わないでいいです。お腹いっぱいです。
体力も筋肉もない俺は、手足がガクガクなりながら何とか矢澤を保健室に預けて、メールで『落ち着いたら連絡くれ。』と送ってから、鍋の材料を買いに大学を出た。
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