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正嗣と出逢ったのは、大学最終学年だった。就活にうんざりしながら説明会を渡り歩き、エントリーシートを書きまくり、突き返されてくる郵送の封筒を見るたびにため息をつく。楽しいことなど一つもない毎日を送っている頃だ。
何とか二次面接にこぎつけた企業のトイレで顔を洗っていると、後ろから声をかけられた。
「そんな必死の形相だと、面接官が引いちゃうよ。」
え・・・。と言いそうになった声を飲み込んで鏡を覗きこみ、向こう側から笑っている男の顔をみた。
バシャバシャと水を跳ね上げたせいで、鏡にも水滴が付いていたし、前髪からはポタポタと滴がおちている。あわててハンカチで髪を拭い、鏡を拭こうと腕を伸ばしたら、後ろから腕をガッシリと握られた。
「いいの、いいの。それは俺の仕事だから。」
「いや・・・でも。」
「段取りよく清掃が進んで綺麗になっていくのを見ると、とってもいい気持ちになる。結局どんな仕事だって過程を踏んで結果がでれば楽しいし面白い。
最近は企業の清掃に入る事が多いから、リクルートスーツを着て死にそうな顔をしている人を何人も見たよ。
この若者となら仕事をしてもいいかなって思われるはどんな人だろうね。少なくても死にそうな顔をしている若者ではないよね。」
鏡の向こうにいる男は自分より下なのか上なのかさっぱりわからなかった。ほぼ同じ身長だから視線の位置が一緒だ。水色の制服とキャップは変な褒め言葉かもしれないが似合っていた。大きな目が顔の大部分を占めている、そんな印象だから童顔にも見える。しかし言われた言葉は自分よりも世の中を知っている風だ。
何と答えていいのか何も頭に浮かばず、軽いパニックになる。面接でもこんな風に予想外の事を聞かれたら何も言えなくなってしまうのではないか。
その場面が容易に想像できて、グっと喉の奥が詰まった。
「緊張するなっていうほうが無理な事だってわかるけどね。仕事って選ばなければ沢山あるよ。それにどんな仕事でもやりがいを見つければ素敵な仕事になる。」
慣れた様子で鏡を布で拭くと、水滴と汚れは見事になくなり、ピカピカの鏡面が甦った。
自分の顔がさっきよりも鮮明に映り込んでいるような気がして恥ずかしくなる。
「ダメモトでいいじゃないの。それになかなかの男前さんだしね。ニッコリ笑って感じた事を言えばいい。」
「そんな・・・女じゃあるまいし。」
「どっから見ても男だね。」
彼はテキパキと隣の鏡も拭き始める。
「持ち場を片付ける時間は決まっているんだ。ちゃんとやり遂げなくちゃね。そういえば面接時間が迫っているんじゃない?廊下にあったボードの時間、14:00だったと思うけど。」
あわてて時計を見れば15分前。少し早目にきすぎてトイレに寄ったのだが長居してしまったらしい。
「がんばってね。」
彼はそう言って笑った。両方の口角がキュっとあがって目が輝く。
心臓がドキっとする微笑みと励まし。
「あり・・がとう。」
呟いた小さな声は届いただろうか。
それを確かめることをせずに、トイレのドアを開け振り向くことなく廊下を進んだ。
何としても、しがみ付いてやろう。もう就活なんかごめんだ、早くどこでもいいから決めてしまいたい。このビルに入ったときに強く心の中で考えていたことは、きれいさっぱり消えていた。
『どんな仕事でもやりがいを見つければ素敵な仕事だ。』
彼の言ったその言葉が俺の心を軽くしてくれた。
そして面接の時に、「希望部署の配属にならなかった場合、何を考え、どうあろうとするでしょう?」そう質問され、そのまま彼の言葉を拝借した。受け売りかもしれない、でもその言葉はストンと心に入ってきたから、自分が欲しかったのはこれなんだと信じられた。
その企業はその後、俺の勤務先になった。
トイレで顔を洗わなかったら、正嗣に逢うこともなく就活が続いていたかもしれない。
忘れるということは、こんな出逢いのことも綺麗さっぱり消えてしまうということだ。
何もないテーブルの上に缶ビールが3つ。
煙草の煙がない部屋のクリアさは、自分が一人でいることを否が応でも認識させる。
自分に向けられた沢山の笑顔。
それを思い出す時、最初に浮かぶのも、最後に見るのも正嗣の笑顔だ。
忘れるのか?あの笑顔を。
「忘れられるのか?忘れたいのか?」
自分に問いかけた言葉は空に吸い込まれ消えていく。
答えを見つけられないまま、そのまま床に転がり目をつぶる。
正嗣の笑顔を追い払うことを繰り返しているうちに、眠りに落ちた。
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