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病院を出て3日。仕事は週明けから出勤することになった。有給消化のみで勤務に戻れてよかった。生命保険の支給があるとはいえ、給料が減るのは正直困る。 余裕といえる程の収入はないし、都会で暮らすにはそれなりの出費がある。一度サイクルが狂うと元にもどすまで時間がかかるから、仕事だけでも順調であってほしい。 俺の記憶喪失騒ぎも、今となっては笑い話になっているようだ。父親に呼び出されて顔を出した人間も、美砂緒の顔を見たら記憶が戻ったと聞かされれば拍子抜けするのも仕方がない。 事故の顛末も思い出したし、仕事の事も問題ない。美砂緒と別れた原因だって思い出した。 それなのに、何かが足りない。 記憶を手さぐりしようとすると声が聞こえる。 『それ以上は駄目だ。』 『近づくな。』 好奇心は猫をも殺すとはよくいったもので、封印しようとしている「何か」を掘り返したいという欲求は日増しに強くなるばかりだ。 必死で諦めさせようとしている自分の自我は、どんな記憶を閉じ込めているのだろう。 記憶の断片が漏れ出るのは、些細なきっかけだ。 鏡に映る自分の顔。そこに何かが足りない気がする。他に映っていた何かがあったはずなのだ。 ふとした瞬間に忘れている何かが浮き上がってくる。掘り返すなと警告しておきながら、記憶を野放しにするとは俺の自我も大したことはない。 本当に封印したいことなのだろうか。 でもとても懐かしくもあり、優しくもある。見えない灰色の奥にある笑顔が見たい。そしておぼろげな幻は女ではなく男のようだった。 思い出していない誰かがいるということだろうか。それは俺が消したいと願う程の人間なのだろうか。 わからない・・・。 ジッとしているとロクなことがない。生活を立て直してシャッキリすればモヤモヤした何かも消えていくだろう。空っぽの冷蔵庫をまずはどうにかしようか。少しくらいならビールを飲んでも大丈夫だろう。 気が変わらないうちにスーパーにでかけた。 生野菜を沢山食べることにしてカゴに葉物を入れる。日持ちするソーセージ、パックに入った肉。高校を卒業してから一人暮らしを続けていたから家事は苦にならない。結婚していた3年間は楽をさせてもらったが、自分なりに出来ることはしたつもりだ。 3年たって、そろそろ子供を作ろうか。そんなことを話しあっていた矢先に起こったこと。俺達の離婚の原因はセックスレスだ。互いにセックスを楽しむ普通の男と女だったはずなのに、俺はある日から美砂緒を抱けなくなった。まったく役に立たなくなってしまったのだ。どうしてそうなったのか、それは思い出せない。ストレスだろうと笑った美砂緒はそのうち治るわよと平気な顔をしていた。俺も年齢のせいだろうと深刻に考えることはなかった。その状態が1ケ月経っても改善されず、2ケ月になりはじめるころには不安が募りはじめた。お互いに言葉にしなかったが「変だ、おかしい。」という単語がムクムクと湧き上がり始めていた。 いつも飲んでいるサプリの錠剤が増えたことに美砂緒は触れなかったし、俺も差し出された錠剤を素直に飲んだ。 こっそり引出を探れば、「マカ」「亜鉛」といったサプリだったことがわかり、俺の不能状態が二人の間に影を落としていることを否応なしに実感させられた。 だからといって変化は起こらない。 あれは美砂緒が一人で買い物にいった日曜日。俺はすることがないままにテレビを見た。 そして電話・・・を掛けた。 そうだ・・・電話だ。相手は思い出せない・・・おかしいじゃないか、なぜ記憶が虫食い状態なのだろう。 電話の内容も思い出せないが時折クスクス笑っている自分の姿が見えるから楽しい会話だった。相手は美砂緒ではない、これは確かだ。 そして電話を切った俺は・・・悲しくなり、そして変な熱に浮かされて寝室にいった。 すでに勃ちあがりかけた自分自身に指をはわせて扱きあげる。それは久しぶりの快感と解放感で、夢中になって自分を高め続けた。 「う・・・あっ・・・。」 溜め込んでいた欲求は強烈で自分の指のはずが、まるで他人の物であるかのように感じた。 〈もう我慢できない・・・。〉 〈取引先に来て大胆だな。〉 〈おねが・・い。ねえ・・・マサ・・・〉 頭の中に響く声に興奮が一気に迸る。勢いよく扱きあげた瞬間、吐精感が噴きあげ射精した。それは驚くほどの量で、右手をドロドロにしながら息を整える。何かの気配を感じてうっすら目を開けた。 そこには寝室の入り口に立ったまま俺を冷たく見つめる美砂緒がいた。 怖ろしいほどの静寂の中に響く自分の荒い呼吸がとても滑稽だった。あれほど熱かった身体の熱はいっきに下がり鳥肌がたつほどに寒気を覚える。 「私以外の誰かを思い浮かべたら使い物になるのね。」 無表情の瞳から涙が零れ落ちた。 「心の中に、どこの女を飼っているのかしら?」 美砂緒はそのまま振り向き家を出て行った。俺達の結婚生活はこれが決定打になって破たんした。俺が違うと何度言ったところで説得力はない。 興奮を引きだそうと施された、ありとあらゆる愛撫に勃起することなく縮んだモノ。辛抱強く俺に付き合い続けた美砂緒にとってはひどい裏切りだろう。 不能だと思っていた自分の夫が、自分ではない誰かを想い自慰にふけっている姿を目撃したのだから。 浮気は断じてしていないし、他に女はいない。これだけは信じてくれ。俺の言葉はどれだけ彼女の心に届いただろうか。届いても、届いていなくても意味はない。 俺が美砂緒にした仕打ちは酷いものだから。 それなのに美砂緒を切っ掛けに記憶が戻るあたりが茶番だ。彼女の顔とともに、すべてが思い出されたのだから。彼女にした仕打ちも、うまくいかなかった原因も。 確かなことは、虫食いのように消えている記憶の断片が存在していること。それを思い出さないように自分が俺に抵抗していることだ。 ふうとため息をつく。スーパーで思い返すようなことではない。 会計をすませるとトイレにいきたくなった。仕方がないのでサービスカウンターに買ったものを預けることにする。食料品を持ってトイレにいくのは嫌だった。 エスカレーターで二階にあがり、隅にあるトイレに入る。 個室が並ぶ一番端にある「掃除ロッカー」のプレートを見て何かが引っ掛かった。用を足し、外に出ると女子トイレの入り口に「清掃中、しばらくおまちください」のスタンドが置かれていた。職場で見慣れたスタンド。 ドクン 急に心臓が跳ねた。 ズクン このスタンドに何の意味がある? どうしてこれほど強烈に疼く・・・。 脳裏によぎったのは階段を転がるように駆け下りる自分の姿だった。一階下のトイレの個室に飛び込み制服のズボンに右手を突っ込む。勃ちあがった熱と強烈な欲求。 勃起する気配にハっとして周囲を見たが幸い誰もいなかった。深呼吸をしてこれ以上固くならないようにやり過ごしながら目をつむる。 押しこめようとしているものが顔をだしそうになる、その間隔が狭まっているような気がする。そして一日に何度もそれがやってくる。 どんどん強烈なイメージに変化していることに怖ろしくなり震えた。 思い出さないほうがいい・・・そう考えながら。

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