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さっきから心臓が煩い。 口は勝手に段取りの説明を続けてくれている。頷く彼女の顔を見ながら、仕事に意識を集中させようとするのに気が削がれる。 どうしてだ? 廊下で何人かとすれ違った。いつもの風景、何度も経験したことだ。軽く会釈をしてすれ違う。邪魔にならないように用具を壁に寄せる。 繰り返される日常と何か違ったことがあったか?・・・わからない。 何かが引っ掛かりふるい落とすと思い出したように心臓が響き、違和感が全身に沁みだす。なんだろう、これはなんだろう。 抜け落ちた記憶の手がかりが、今日のどこかに埋まっていたのだろうか。 仕事を終えて待ち合わせ場所に急ぐ。 少しは気が紛れるかもしれない。待ち合わせの相手は美砂緒で、入院中と退院後も何かと世話をやいてくれたからお礼を兼ねて食事をおごる事にした。 彼女を傷つけてしまったのは確かだが、憎み合って別れたわけではない。病院でも美砂緒は笑顔のままだった。冗談をいい、近況を話ながら微笑む。美砂緒の存在に安心したから戻らない記憶の断片があっても気にならなかった。退院するまでは・・・。 カジュアルなイタリアンの店でパスタやサラダをつつきながらゆっくり食事を楽しんだ。 料理はおいしかったし、自分で作るパスタより当たり前に旨いから結構な量を平らげたと思う。ワインの効果もあってか、気持ちは随分穏やかだった。うるさかった心臓も違和感も今はおとなしくしてくれている。 「明日は仕事?」 いきなり聞かれた質問に答えようと顔をあげると、そこには真剣な顔をした美砂緒が俺を見ていた。 「・・・休みだけ・・ど?」 その先は俺にもわかった。できれば言わないでくれと心の中で願った。遮るべきだろう、でも俺にはできなかった。彼女が望むのならそうする義務があると思ったからだ。 「どこかに泊まっていかない?」 「どこかって・・・。」 「私ね、やっぱり納得できないの。これで駄目ならあきらめる。でも・・・そうじゃなかったら先のことを考えることにしない?」 俺の答えを聞く前に伝票を手にとって美砂緒が立ち上がった。今日は俺が驕る約束だから伝票を取り返そうと手を伸ばした俺に美砂緒は言った。 「ホテル代、払ってくれればいいわ。」 動きの止まった俺を一瞥したあと、美砂緒は出口に向かった。背中をみながらノロノロと考える。付いて行かなくてはいけないだろう。俺は役に立つのだろうか・・・。 離婚してから付き合った相手はいないし、誰かを抱いたことは無い。自分で慰めることはあるから不能ではないはずだ。それを言ったら結婚していたときだってそうだ。あの日・・・熱いくらいに勃起していた自分は何だったのだろう。 「マサ、いくよ。」 〈おねが・・い。ねえ・・・マサ・・・〉 息を吐いて目を閉じる。ゆっくり目を開けると熱に浮かされた声は消え去った。 美砂緒がじっと俺を見ているから、そのまま一歩踏み出す。先のことを考えても仕方がない。 待っていた美砂緒の横に立ち、そっと手を繋いだ。彼女は俺を見ることなく真っ直ぐ前を見て歩き出す。 この行動が俺達にとって未来になるのか、最後通牒になるのわからないまま。 正直、怖さしかなかった。

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