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解ったことがある。 違和感と動悸が起こる場所はとあるオフィスビル。その場所以外ではいたって普通、平常心のままでいられる。 記憶の切れ端が疼きだし、声が聞こえるのは、あのビルだけだ。廊下ですれ違う誰かなのか、ビルの中の場所なのか。何がそうさせるのかわからない。一番いいのは近づかないこと、そして封印した自分を信じて「忘れたまま」でいることだ。 シフトを組んでいるのは自分だから、あのビルを担当しないようにすればいいだけのこと。 そうして月を重ねていくうちに、苛立つことは少なくなった。 引っ掛かりも違和感も減っていく。そう、このままでいい。 年が明け、3月を迎えると新しい年度が始まる季節になる。 まだスーツに着られている新入社員が研修のために姿を見せ始めた。少し前まで大学生だった彼らもいきなり社会人としての括りに入れられ、困惑と不安に彩られた日々になるだろう。そして徐々に慣れていき、大学生だった自分を懐かしむようになる。 俺は高校までしか行かなかったから、彼らより社会経験は長い。ネクタイを締めてする仕事ではないが、やりがいもあるし自分に向いていると思う。何より身体を動かしていると雑念が消えていく。 そして綺麗になっていく過程には達成感がある。 トイレの鏡にはねた水滴を綺麗にふき取り、再び輝きだした鏡面に満足して、映り込んでいる自分に笑ってみた。ピカピカだ。 なんだ・・・。 ハンカチを握る腕を掴んだ・・・ことが・・ある。 着慣れていないスーツ。知らない相手に何かを言った。 そして・・・笑った。 なんだ・・・どうして今頃になって。 しばらく見えてこなかったはずの記憶が再び姿を現したというのか。 あのオフィスビル以外で起こったのは初めてのことで狼狽える。もういい、忘れてしまおう、それがいい、そうやって納得したはずなのに。 どうして自分が自分に逆らうのか。 思い出そうとしたら『やめておけ。』といい、忘れようとすると、ヒントのようにチラつかせる。自分が忘れようとしたのは出来事か?それとも誰か? ・・・女ではない・・・男だ。 マサ・・・という男だろうか。俺の名前を呼んでいる声の可能性もある。 俺が誰かにお願いをされたということだろうか。 お願い・・・あの声のトーンは色に溢れていたから、日常にある会話ではない。男に懇願されたというのか?性的な・・・懇願。 洗面台に両手をついて身体を支える。 記憶・・・にない。俺は男で、男に興味を持ったことはないし、ましてやセックスだってしたことがない。 セックスは女性とするもので、好きな行為だった。でも・・・美砂緒を抱けなくなったし役に立たなくなった。でも、不全ではないことを自分が一番よくわかっている。 あの日、電話を切ったあと俺は寝室に向かった。 誰と会話した? セックスレスに陥っているにもかかわらず、猛るくらいに高揚した相手は誰だ。 記憶が戻る前に見舞いに来た誰か・・・なのか? もうこりごりだ。記憶を封印したい自分、思い出したい自分、二人いるなら片方の望みを叶えることにする。 思い出す努力をしよう。 忘れる努力にこれだけ失敗したのだから、真逆に動けばいいだけだ。 来月のシフトを変えてやる。 あのオフィスビルに定期的に行くことにしよう。たぶん何かがわかるはずだ。 どんなことがあっても受け止めよう。 モヤモヤしているよりずっといい。

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