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壁画

 ルカは溢れんばかりの愛をもって、翼を持つエドワードを己のスケッチブックに描いていった。やがてそこに聖母のごとく美しいマダムも加わり、その絵は、閉店している駒鳥亭の壁に描かれることになったのだ。  昼夜を惜しまずルカは駒鳥亭に籠って、ミケランジェロが描いたと言わんばかりの巨大な壁画を仕上げていく。学校はどうしたのかとエドワードが聴くと、ルカは母親に休学届を出してもらったと得意げに答えた。 「といっても、もうすぐ夏休みになるから関係ないんだ」  梯子にのぼり、絵筆を滑らせるルカはじっと作業を見あげるエドワードに言葉を返す。彼は絵の具に塗れたシャツを纏ったまま、何日も体を清めていない。  髪の毛も梳かさずにぐしゃぐしゃのまま。それでもルカの整った顔は前にも輝きを増し、精悍なささえ備えている。 「家に、帰らなくていいの?」  そうエドワードが尋ねると、ルカはぴたりとその絵筆を止めた。 「いいの。帰っても居場所ないから、いつもダラスと一緒に寮で過ごすんだ」  微笑みを宿した眼をエドワードに向け、ルカは微笑んでみせる。彼の顔に張りつく笑顔が何だが虚構めいたそれに見えて、エドワードは顔を逸らしていた。  パブリックスクールに入れられるものの中には、家族と上手くいっていないものもいるという。ルカが通うそこはジェントリの子らが集う由緒正しい場所だというが、厄介者を追いやる場所としても機能しているというのだ。 「ダラスはいいよ。優しいし、奨学生だから他の上級生と違っておかしな上から目線でこちらも見てこない。ついでに絵のモデルとしても、体の相手としても最高のパートナーだ。君も家に学校に来ればもっと楽しんだけど」 「僕には学がないから」 「シェイクスピアの時代の言葉でロンドン橋を歌えるのに? ロミオとジュリエット。それにハムレットだって君はお気に入りだ。ラテン語だってかじってるだろうに」 「あれは、マダムが教えてくれたからわかるだけ。ラテン語なんてチンプンカンプンだよ。僕、スコットランドがなんでイングランドと同盟結んだのかもよくわかってないし……」 「そのイングランドを継いだスコットランドの王様が追い出されて、ドイツから僕らのために王様がやって来た。王様は僕らの言葉を知らない。知ろうともしない」 「僕が知ることを拒んでるってこと」  エドワードの言葉にルカは意味深な笑みを浮かべてみせる。彼は笑みを深め、言葉を続けた。 「たしかに、知らなくていいこともあるかもしれないね。君や、マダムの秘密のように。でも、人は秘密になればなるほど、その秘密を知りたくなるんだよ。なぜ、この世界は男と女で別れているのか。男は女を愛さなければならないのか。それにも関わらず、僕は男しか愛せないのか」  そっと絵筆をパレットに置き、ルカが梯子を下りてくる。彼はエドワードの前に降り立ち、言葉を続けてみせた。 「女の子にときめかないって気がついたのはいつからだったかな? それからね、その手のお姉さまたちに手伝ってもらったけど、ちっとも反応しないんだ、僕のやつ。笑われたし、哀れだねとも言われたよ。綺麗だとは思うんだけど、立たないんだよね。綺麗だとは思うんだけど、その感情には熱が伴わない……」 「僕のママには反応する癖に」 「うん、本当に驚いたよ。奇跡だ。でもそれは、マダムが男の部分を持ち合わせている両性具有だからだろうね。ようするに僕は、男しか愛せない悪魔の子なんだよ。この絵も、その悪魔の魔力がなせる業……」 「これが、悪魔の力が描いた絵……」  そっとエドワードはルカの描いた絵をみあげる。ダラスをモデルにして描いた孔雀の羽を持つ天使に、駒鳥の翼を持つエドワードが抱かれている。そんな二人の天使を、十字架の刺さった丘から見上げるマグダラのマリアの姿があった。  もちろん、マリアのモデルはマダムその人だ。 「悪魔なのに恋人は天使ミカエルとして描くんだね」 「うん、ダラスは僕が堕天させた初めての人だから……。ちなみに君は、幼子イエスだ」 「マダムがマリアじゃなくて、マグダラなのはモリーたちの守護者だから?」 「あたり。マグダラのマリアは、娼婦たちの守護聖人だからね。一説によると、彼女はイエスの妻でもあったという」 「僕はマダムの子供だよ。あの人の夫にはなりえない……」 「そうだね。マダムは神の子たる君を守護する存在だ。聖女よりも尊く、聖人よりも格の高い人……。僕のマダムは、本当に完璧な存在だよ」  そっと踵を返して、ルカはエドワードから離れていく。どこにいくのとエドワードが告げると、彼は口元に笑みを浮かべてエドワードを振り返った。 「マダムに体を洗ってもらいに……。この絵のご褒美をもらわないと……」  ルカの言葉にエドワードは言葉を失う。そういう契約になっていることは知っていたが、自分の母親が男に寝取られると思うと、エドワードは気が気でなかった。それが、自分とあまり歳の変わらない少年ならなおさらだ。 「大丈夫……君からママをとったりはしない。僕は、正当な対価を貰いに行くだけさ。悪魔の子だからね。清貧を良しとする聖人と違って、頂けるものは頂くよ」  本当は君も欲しんだけどね。そういたずらっぽく笑ってルカは部屋を後にする。後に残されたエドワードは、近くにあったバケツを蹴り倒していた。バケツに入っていた水が駒鳥亭の絨毯を濡らしていくが、何の感慨もわかない。  空っぽのモリーハウスに囀るモリーたちはいない。いるのは、自分の母親を対価という名で喰らおうとする悪魔の子だけだ。そっとエドワードはルカの描いた壁画を見つめる。  神の子に扮した自分は、寂しげな眼差しを地上にいるマグダラのマリアに向けている。まるで、自分とマダムが引き離されているようなその絵を見て、エドワードは眼を歪めていた。 「分かってるよ、いつまでもママの側にいられないことぐらい」   でも、エドワードはモリーハウス以外の世界を知らない。自分はマダムに庇護されたか弱い小鳥でしかない。それではいけないと分かっているのに、モリーハウスという名の檻から出ることがとても恐く感じられてしまう。  ぎゅっと自身を抱きしめ、エドワードは壁画を見つめる。空へと旅立つ幼子を見つめる聖女の眼には、言いようのない寂しさが漂っていた。

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