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試読2
突然の謁見を命じられ、瑞雪は戸惑いの真っ只中にあった。幼い時分に自宮に成功し、文官として数年にわたって仕えてはいるが、控え目な性格と目立つ特徴のない外見が起因して、王宮に多く巣くう宦官のうちの一人といった程度の存在である。瑞雪という名の宦官が存在すること自体、知らぬ者の方が大多数だろう。
──芙蓉国・宮殿。かつては芙国と蓉国とに分かち、争いの絶えなかった国だが、いまやそれも歴史の一つと言われるほどには、古のこととなっている。国号が芙蓉国と統一されたその年に、暦を芙蓉暦と改めてから、すでに一八二年ものときが経った。
王宮は内も外も豪奢を極め、後宮には一〇〇人を超える美女が住まう。宦官が溢れるように存在するのは、その影響を大きく受けたためである。ゆえに、宮殿は宦官の天下と言っても過言ではなかった。
一〇〇年以上続く平和な日々が感覚を麻痺させ、それでも大国と称される芙蓉国は機能を続けてきた。
さて、瑞雪といえば、緊張した面持ちで正殿の扉の前に立たされている。やや華奢なその背には、きらびやかな彫刻を施した仰々しい扉は、あまりに大きい。
「ここが、御前とお会いする場所……」
まるで宴でもできそうな外観だが、そういえば先代の王のころ、公主の誕生に合わせて装飾を改めたと聞いたことがある。なるほど、あちらこちらに可憐な花や躍動感のある栗鼠など、愛らしい文様に囲まれていた。
「ほれ、ぼんやりするでない」
指摘の通りぼんやりと、扉の足元から屋根の端まで観察していた瑞雪は、上官に咎められ咄嗟に着衣に失礼がないか慌てて確かめる。衿をぎゅうぎゅうと直しているうちに、緊張から手のひらにはじっとりと汗が浮かんだ。それを腰の方で拭うと、また後ろ衿が不格好に吊ってしまう。
「陛下。例の者をお連れしましたぞ」
ぎぃ、と両開きの戸が音を立てて開け放たれ、瑞雪を迎えた。こちらへ、と王付きの内官と護衛の二人に導かれて歩みを進める。上官は、瑞雪の後ろをついていた。前を歩いていてくれたら、少しは気が楽だったろうに。
「……ほう。お前が、かの瑞雪か」
声のする方を思わず見上げると、数段高い位置に作られた玉座に、その男はもたれるように掛けていた。本来は、瑞雪のような特別な地位も持たぬ宦官が直接まみえることすら稀有な存在が、そこに在る。
「はっ、はひっ……!」
混乱のあまり、声が裏返る。呼び出されただけでなく、どうして王に名前まで知られているのだろう。ただ静かに与えられた任をこなす日々。目立つような人間でもないし、目立たないように生きているはずだ。
「はっはっ。そう、かたくなるな」
「も、申し訳ございませぬ……」
「これは陛下、失礼しましたな」
糸のような白髪をまとう上官が、袂を揺らしながら笑う。
「瑞雪、聞くところによると、お前の洞察力、弁舌ともに優れているらしいな」
「え、わ、わたしですか……」
洞察力、そして弁舌──それが優れているか、優れていないか。そう問われれば、答えは優れている。である。瑞雪は元来、頭は切れる方であった。幼い頃に通った私塾では、誰よりも早く詩を諳んじたものだ。
しかし、この目立つことを極端に苦手とする性分が邪魔をして、弁論に持ち込むこと自体が難しく、それを発揮する機会はほぼなかったと言っていい。
「い、いいえ……そんな、畏れ多い、ことで……」
もごもごと答える瑞雪に、王は重ねて軽く笑った。
「燦繍や貞審が、大変に褒めそやしていたぞ」
「さ、燦繍さまが……?」
名を燦繍という上官の方を振り向けば、彼は悠然と微笑んで頷いた。とはいえこの男がそのようなことを言うとは、到底思えない。何しろ、この上官に意見を握りつぶされたことが幾たびかあったのだ。
瑞雪は、王への書簡を精査し、取り次ぐ役目を負っている。日々、王に届けられる書簡といえば、政治的なことから果ては恋の詩まで様々だ。いくら王に宛てられた文とはいえ、それをいっぺんに届けるわけにはいかない。よって、瑞雪を始めとした官吏が内容を改め、問題ないものを渡すことになっている。が、これがまたくせものなのであった。
『あ、あのこれって……減税を望む声、ですよね。嘆願ということは、お渡ししても……』
『ならぬ。そのようなことで陛下のお心を乱すものではない。一時の世迷言だろう』
文面は詩を書いたようなものだが、深く読めば、それは民の声であった。この望みは、必ずや王へ届けねばならない、と瑞雪は思っていた。
『ですが、この地方は先月に水害が……とても、この税では払えません』
『しつこいぞ。それ以上は叛意とみなす』
『そんな……!』
そのようなことが重なり、いつしか瑞雪はなにも言えなくなってしまった。いや、というよりも諦めてしまったのだった。自分がなにかを変えることはできない。取るに足らない存在だと。
「このところ、文吏の間ではお前の見識がなかなかと評判でな」
あまりに不自然な燦繍の言葉に、瑞雪は動揺するばかりで、一層声を震わせて「とんでもございません」と答えるしかできなかった。
「そこでだ」
王は闇のように黒々とした瞳で、瑞雪を真っ直ぐに見下ろし、貴いとされるその声を発する。
「お前の官位を、六階級ほど上げる」
「…………えっ?」
まったくもって、意味が分からない。寝耳に水、晴天の霹靂……まさにそれだった。あまりのことに言葉を失い、水上にあげられた魚のように口をぱくぱくとしていたが、ついに瑞雪は腰を抜かしながら叫んだ。
「まままま、まさかそれは! 殉死をせよとっ?」
去勢をした体はとうに馴染んでいたが、まるで術後当時のように滲ませてしまいそうだった。
「そうではない。瑞雪──これより、お前に大役を与えよう!」
凛々しい王の声に、瑞雪は目を見開くことしかできなかった。
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