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人だかり
人だかりを少し離れたところから見ていた。皆がどよめく中で、俺のすぐ近くで一人だけ直立している人がいた。その人物は男で、ギターケースを片手に抱えている。明るい金髪のベリーショート、大柄でなんとなく目を引く。
凱虎だ。
彼は俺の方を見下ろす。下手な挨拶もなにもない。今会ったのに、ついさっきから同行していたような慣れた感じで俺に言う。
「お前のことじゃね?」
俺はマスクをつまんで鼻の付け根まで持ち上げた。
「気のせいだ」
背伸びして彼の耳元に顔を寄せる。
「そうかな?」
落ち着きを払っていたが、内心は今日一番に動揺していた。深夜に不釣り合いなほど心臓がばくばくと危険を感じるほどに高鳴っている。
口元に手を当てて、はてな、と向こう側の萼と俺を交互に見合う彼の腕を掴んで引っ張る。
「結構萼と雰囲気似てるって言われない?」
「行こう」
「どこに?」
「ここじゃないどこか」
「なんで? とりあえず会ってきたら? サイン貰えるかもよ。俺だったら絶対行くけど」
必ず高く売れると思うと凱虎が言った。彼はそういうやつだ。
今日は女と一緒じゃないらしい。どうせナンパに失敗したんだろう。俺に会いたがる時は大体そういう時だ。音楽にかこつけて俺にやつあたりしたいだけ。極力喋りたくない俺は彼にとってかっこうのサンドバックなのかもしれない。ヤなやつ。まあでも歌がちょっと上手い。萼には遠く及ばないけれど。いいや。
萼には誰も届かない。きっと。20年くらい一緒にいた俺ですら届かない。俺ですら、だって。ウケる。俺なんかだ。俺なんか。
俺、本当の本当にαだったら、こんな気持ちにならなかったのかな。今も別の生き方をしていたのかな。なんでだろ?
なんで俺Ωなんだろ。
嫌な気分だな。
「なんかお前、女の目ぇしてる」
俺の顔を覗き込んだ凱虎が真顔でそんなことを言った。
「なんだよそれ」
「好きなの?」
「は?」
身体がぶあ、と熱くなる。声に少し芯ができてしまう。
「そんなわけねえだろ」
ふうん、と凱虎は意味深に笑う。
「今日さあ、ちょっとつまんねえことがあった」
だろうな。そうじゃなきゃ俺と会おうなんて思わないだろうよ。しかし脈絡のなさに戸惑う。こっちはお前に鎌をかけられたことに対してまだ動揺しているのに。
「だから寝る前に面白いことしてもいいかなって」
彼は大きく息を吸った。吸いながら俺のことをにやにや見ていた。新しいおもちゃを買ってもらった子どものような笑顔だった。
彼は俺の腕を片手でやすやすと羽交い締めにした。ギターケースがガタ、という鈍いヒヤヒヤする音を立てて地面に落ちる。
いや待てよ。
「萼さーん! この人じゃないですかー!」
そうかそうか! お前はそういうやつだったんだな!
彼の咆哮はそこにいる全ての人間を注目させるには十分すぎる迫力があった。
海が割れるように人が俺たちの方を向き、道が開く。
萼と目が、あった。
まずい。
凱虎の腕から逃れようと必死にもがくが、力が全然敵わない。萼が一歩一歩俺たちの方に近づいてくる。それを見ると余計に焦ってしまって四肢に力が入らなくなっていった。視界もぼやけておぼつかない。呼吸も苦しくなっていくようだ。
屈んでも引っ張っても凱虎の腕が離れない。
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