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銀のくじら

 たまらなくなってケースを開けてギターを掴む。ヘッドに銀のくじらが月の明かりに照らされて綺麗。ああ、この匂い。俺のギター。萼が俺にくれた世界に一つだけの。  指が吸い付くように弦を押さえる。  初冬の潮風を吸って、俺は歌う。誰もいない世界は酷く心地いい。  寝起きだからちょっと掠れていたけれど、伸びる。熱に浮かされているから自分の声が内耳の中で暴れ狂って引きこもる。ピッチがあっているのかなんてわからない。  でもそんなの関係ない。俺の歌を聴くのは俺だけ。俺にしか聞こえないんだから、どんな歌でもいいでしょ。  指が勝手に踊り狂う。弾き慣れたコードと何度聞いても心惹かれるメロディー。いいな。自分が歌うには高すぎるとわがままを言った彼のことを思い出す。そんなことない、一緒に歌ったらきっと綺麗にユニゾンする。俺の声は高すぎるしひ弱すぎるから、お前の声で支えて欲しい。  なんて。  思ったら本当に声が聞こえてきたんだけど。  幻聴と戯れるのも悪くない。なんか俺すごくイきそう。  萼の声。好き。好き。好き。 「変わんないなあ、あーちゃんの声。綺麗」  音の余韻が消えたら、すぐ隣の暗闇から彼の声が聞こえた。  は? 幻聴が喋りかけてきた。発情期ってやばい。幻聴でもいいや。萼とおしゃべりできるなんてなんだか夢みたい。夢最高。 「なんで誰にも聞けない場所で歌っているの?」 「引くだろ。みんなと違う声だから」 「でもちゃんと聞こえているよ」 「お前が聞いているならもうそれでいいよ、俺は」 「確かに、こんなに素敵な声を不特定多数に聞かせるのは忍びない」 「そんな風に俺の声を評価するのはお前だけだから」 「だったら尚更俺は嬉しい、なんて」  なんて。じゃねえ。 「そのギター、まだ使ってたんだ」 「このギター以外弾きたくないよ」 「安物ってわけでもないけど決して高いものじゃないのに。これよりいいギターなんてたくさんある。とっくに買い替えたとばかり思っていた」 「俺にとって最高のギターはこの一本だけだから」 「どうして」 「萼が俺にくれたものだから。萼の匂いがする。一人でも萼がそこにいるみたいな気持ちになる。だから平気、一人でも平気」 「本物がそばに居るのに?」  肩を抱かれた瞬間、俺の横にいるのは全てを包み込む夜の闇ではないことを悟った。  

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