24 / 65
水の中にいる
*
温かい水の中にいるみたいだった。心地よくて、ずっとずっとまどろんでいたくなる。目蓋の裏の視界は若干の日差しを認めた。昼間だ。朝かな。
こんな朝なら悪くないかもね。
心はぐちゃぐちゃだった本棚を綺麗に整頓した時のようにすっきりしてすごく落ち着いている。
一生目覚めたくない、と思ったら遠くから波の音がしたような気がした。よくよく聞いてみると波の音じゃない。誰かの寝息だ。
目を開けたら裸の萼が眠っている。
現実が津波のように押し寄せてきた。溺れ死にたい。
やってしまった。萼の腕からこっそり抜け出す。衣服を着ている。彼が着せてくれたのか。体が背中に羽根が生えたように軽い。あと五日くらいあるはずの発情期の倦怠感と洗脳は台風の後の晴れ間のように清々しいほどに引いている。
穏やかすぎる体とは裏腹に、心は焦燥と後悔と自責と懺悔と悔恨と絶望でふわふわしている。全然地に足がついている感じがしない。これからどうしていいのか分からない。
ベッドから抜け出して真っ先に探したのはギターだった。
ベッドサイドテーブルの下に置いてある。
腰が筋肉痛のように痛かったけれど、そんなことを忘れるくらい高揚する。俺はいそいそとしながらも慎重にそれを抱きかかえた。俺のギター。萼。
……萼が眠っている。
苦しい。涙が出てきた。どうしよう。俺。俺。
恋人がいる人を寝取ってしまった。有名で人気な歌手なのに。浮気させてしまった。俺、彼に死ぬほど欲情する姿を見せてしまった。Ωだって、絶対気づかれた。俺。
俺、萼を誘惑してしまった。
どうしよう。もうどうしようもできない。
萼が目を覚ました時、彼は一体俺になんて言葉を投げかけるんだろう。怖い。なにを言われる? 嫌だ。軽蔑されるかもしれない。好きでもない相手を抱いてしまったんだ。嫌悪されるかもしれない。俺のせいで自分を嫌悪してしまうかもしれない。
卯姫子 に軽蔑されるかもしれない。やだ。どうしよう、俺のせいで卯姫子と萼の婚約が破談したら。卯姫子を泣かしたら。俺のせいで。伯父さんと伯母さんに殺される。
どう責任をとったらいいんだ? 分からない。こんなにまずい状況なのに、体はひどく幸福感に満ち溢れていた。それもひどい気分だ。心と体が水と油のように分離して俺自身も困惑を隠せない。
ともだちにシェアしよう!