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綺麗

 いや、なんとなく今までのことが夢なんじゃないかとも思える。この匂いだけが真実で、俺は彼の元から逃げてきた2年前から、ずっとギターだけを抱えて苦しい日々を乗り越えていたんだ。うん、きっとそうだ。BARで寝ているのはちょっと居眠りしちゃったんだ。  でも……俺っていつからこんなに匂いに敏感になったんだろう? 萼の匂い、なんて大人になる前まで感じたことなんかなかった。誰かの匂いって大体洗濯洗剤とか石鹸とかシャンプーの匂いになるはずだから。  ごまかしたってちゃんと分かる。Ωになってからだ。特に萼の匂い。少しでも香るとそれが二倍にも三倍にもなって俺の体に染み込んでくる。少なければ少ないほどもっと欲しいと体は欲張りになって恋しい思いは募るばかりだった。  彼の匂いは、香水のアクアマリンの中に西瓜の濃縮した甘味を一滴垂らしたような匂いがする。マリンの碧色と西瓜の優しい薄紅が合わさって深い深い紫色。  綺麗。萼の匂いをもっと嗅ぎたい。いや違う。  違う違う違う、とギリギリしていたら真横から煙草の副流煙を思いっきりかけられた。視界が薄い灰色に染まって飛び跳ねる。  煙が鼻から体の中に入ってげほげほしていたら、隣からくすくす笑う女の人の声が聞こえた。  隣でマスターが俺を見て笑っている。  突然の登場に動揺していたら、さっきからいたんだけど、とまた笑われる。 「珍しく凱虎から私に会いにきたと思ったら、あなたを担いでいた」  俺はちゃんと現実を見なくてはならないことを悟った。 「本当にこの街を旅することにしたのね」  マスターはもったいぶった言い方をする。そうでなければあなたがまだこの街にいるはずがない、と婉曲に言っている。  言葉の続かない俺に、彼女は優しく、嘘よ、と言った。 「……凱虎は?」  俺は話題を逸らすように彼女に尋ねる。 「あなたをここに置いてさっさとどこかに行ったわ」  行き先は知らない、と彼女は続ける。  そうですか、と言ったきり会話が続かない。  俺はいそいそとギターをケースにしまう。  

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