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泳ぐよう

 詮索される前に帰ろう。この街を出るんだから、彼女ともお別れだ。 「体調どう?」  不意に聞かれた言葉に緊張を隠せない。この人はいつも質問がずるい。墓穴を掘るのはいつだって俺の方だ。 「だいぶ楽じゃない?」  そう言えばだいぶ楽だ。少しばくばくするけれど、いつもの激しい発情期の気持ちがしない。体も楽だ。これならいつもより少しムラムラしているくらいで楽々我慢できる。  俺ははいともいいえとも言わなかったけれど、俺の反応で俺の答えがイエスであることを彼女は悟ったらしい。短くなった煙草を吸って、煙を吐きながら、それを綺麗な灰皿に押し付ける。流れるように次のタバコをポケットから出してライターで火を点けた。 「よく効くクスリなのよ。三日は持つと思う」  俺はぽかんとしてしまった。言っている意味を飲み込むのにしばらく時間がかかる。 「聞かずには悪いと思ったけど、眠っている間に打っちゃったの」  彼女は針を刺すような仕草をした。注射で薬を打たれたらしい。ジェスチャーを見ると太腿に。当たり前のような顔をして首を傾げて笑った。 「私に処方されたクスリなの、あまりだから気にしないで」 「え……?」  彼女は明日の天気を話すような気軽さで言った。  俺はしばらく言葉を失う。彼女はΩだったのか。 「どうして抑制剤を打たないの?」  完全に逃げるタイミングを失ったし、彼女は決して俺を逃してはくれないだろう。観念して座り直した。小さくため息をついて口を開く。 「……高くて」 「そうね、でもそうじゃない」  歌うように彼女は相槌を打った。 「本当の理由はそうじゃない、違う?」  俺はなにも言えない。  彼女はしばらくなにも言わないで俺の生み出す無言の空間を味わっていた。タバコの煙理だけがそこを泳ぐようにただ優雅にくゆっている。  

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