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しかもグー

「あんたになにが分かるんだよ!」  一度叫んだら、胃のあたりにずっとずっとあった重くて、ぎすぎすして、どろどろして、自分をずっと具合悪くさせていた、穢れていて、見るに耐えないような塊が喉元の方に瞬く間に、対して出てもない喉仏の方に向かってせりあがってきた。 「今まで当たり前にあったものが無くなったんだ! ずっと隣にいるはずだったのに! 俺の半分がどっかに行ったんだ! 遠くにいった! 俺は一人でも、そいつが……! ……萼がいたから! 萼のいない世界なんて灯台のない夜の海と一緒だ! 朝の来ない毎日と一緒! 甘くないプリンと一緒! 音楽のない世界と一緒!」  それを声という音に乗せて吐き捨てるのは、あまりにも簡単だった。 「Ωだから! ずっと一緒に居たかった! 離れ離れは嫌だ! でもΩじゃ傍にいることなんてできない……! あいつには卯姫子がいるから迷惑になる! 萼の迷惑になんて死んでもなりたくない! Ωになってから、彼が欲しくてたまらないんだ……!」  もうやだよ、全部嫌。  そう言って泣いたら、突然顎を掴まれた。彼女の華奢な手は雪女の手みたいに冷たかった。俺の顔が熱すぎるのか? とか平和的なことを考えていたら、左頬に信じられないくらいの衝撃が閃光のような速さで走っていった。衝撃の後に痛みがきて、俺はマスターに殴られたことを理解した。 「自分の気持ちを性別のせいにするのはやめなさい」  しかもグーだ。  彼女の鉄拳は小さいのに隕石みたいな質量を伴っていた。  端的に言うとめっちゃ痛い。 「Ωとかαとか関係ないでしょ」 「……あるよ」  若干怯えながら言ったら声が震える。 「ないよ、いい加減にしなさい」  怖かったので、はい、と小さい声で言ってしまった。すいません。  彼女は深いため息を吐いた。 「その気持ちは相手に伝えたの?」  俺は左頬に手を当てながらばつが悪そうに首を横に振る。  だったら、と彼女がトゲトゲした声で言った。怖いって。 「無くしたと思っているのも遠くに行ったのもあなたでしょ、違う?」  そう言われてみればそうかもしれない。 「彼は今どこにいるの?」 「……この街にいる」 「だったらさっさと伝えて来なさい」 「無理だよ、できないよ!」 「あんたそうやって一生彼のせいにして自分の不幸に酔いしれるつもり? あんたはシンデレラじゃないのよ。自分で動かなきゃ幸せにはなれないの、前に進めないの。いつまで逃げてんのよ。」  ふた呼吸置いたあと、一度彼女は息を口から吐いて空気を鼻から吸い込んだ。 「私は今、最高に幸せよ」  彼女はそう言って笑うと、俺のギターに手を伸ばす。その手を遮ろうとしたら伸ばした手を思いきり叩き落とされた。右手の甲が痛くて赤くなった。 「凱虎があなたを連れて来た時から、あなたがΩなのは分かっていた。凱虎も、あの子は自分では自覚してないけど鼻と目と勘が良い。多分会った時から感じていたと思う。だから私に会わせたんでしょ」  俺のギターがケースごと彼女の懐に入った。 「性別なんて関係ない、それも含めてあなたなんだから。あなたはあなたでしかない。彼に会って気持ちを伝えるまで、これは預かっておく」  さっさと行って来て取りに戻って来なさい、と彼女は吐き捨てる。  

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