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 遠くで卯姫子が萼の名前を呼んでいる。萼は見向きもしないで俺の手を引っ張って駆け抜けていった。 「どこに、行くの、っ?」  俺は息を弾ませて斜めうしろに見える彼の横顔を見上げた。素面で目に映す彼の顔は、いまだに幻なんじゃないかとも思える。その幻の横顔が他の誰でもない、俺だけを見て笑う。 「海でしょ」  俺は驚く。 「海?」 「あーちゃん海が好きでしょ」  好きだけど。  彼は楽しそうに続けた。 「卯姫子が追ってくる!」  なんで笑ってんだよ。後ろを振り返ったら、か細い街灯の明かりに卯姫子の大きなイヤリングがキラリと反射した光が見えた。マジで追いかけてきてるじゃん。 「逃げよう、海まで! 泳いで、俺ら二人で、歌をうたって、遠くに行こう」  こいつは馬鹿なの?  海の公園から海岸は遠くない。萼は天才的に卯姫子を巻くと簡単にテトラポッドの間を抜けて砂浜までやってきた。俺は彼のペースに合わせすぎていて息がものすごく上がっていたしヘトヘトだ。  潮の満ち引きが耳のすぐ近くで聞こえる。砂浜の土を蹴ると砂が散って月明かりに照らされてシャワーみたいに綺麗だった。  波の届くギリギリまで俺を引っ張っていった彼は、突然俺を振り返る。なんだ、と思ったら満面の笑みで俺の手を思いっきり引っ張ってくる。その笑顔が子どもの頃の笑顔にそっくりで、俺が一瞬童心に帰っていた隙に、彼は俺を離れないくらいぎゅうぎゅうに抱きしめるとそのまま海に倒れこんだ。  冷たさより先に月明かりに照らされたたくさんの水しぶきが彼の笑顔と一緒に視界いっぱいに広がった。  体の半分が海に沈んでびしゃびしゃになっている。  彼がすごく楽しそうに叫んだ。 「冷てえ!」 「馬鹿なの!?」  彼の胸の中で思わず叫んだけど、萼は少しも聞いちゃいない。  

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