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波の音
がし、と腕を掴まれる。
もううるせえよ、引き止めんなってぶん殴ってやろうかと思ったら、彼の口が開いた。
「卯姫子とは付き合ってない」
俺はいかにもフラットな表情でそんなことを言う彼に思い切り溜め息を吐いた。
「嘘を吐くな。雑誌見たぞ、婚約のご予定まで聞かれてただろうが」
「あれが嘘。あざみだって分かるだろ、αの世界って嘘ばっかりなんだ」
思いがけず萼の声が震えたので、俺はびっくりして振り返った。そうしたら震えている声と同じように不安定な表情の彼がいた。俺に何かを訴える時の顔だ。
「許嫁っていうのも、23までお互いに婚約相手が見つからなかったら、って約束だった。本当は! いつの間にか決定事項になってた、だから運命なんかじゃない」
彼の顔を覗き込む。彼は自分と雰囲気のよく似た顔をほんの少し歪ませて、俺を一心に見つめている。俺がどうしたの、って顔をするまで言うことを待っている顔だ。こいつも結構かまってちゃんなんだ。俺は仕方なく、どうしたの、って顔をした。言ってごらん。
「嘘ばっかりの世界で、あざみだけが本当だったよ」
両手をぎゅっと握られて、仄かな月明かりが彼の瞳の中で一瞬キラリと光った。
「2年も待たせてごめんね。あざみは隠れるのが上手だから探すのに時間がかかったんだ……ううん、違う、本当は。本当は少し怖かった。俺のことを嫌いになったからどこかに行っちゃったのかと思っている自分がいたから。だったら俺の中にいる俺を嫌っていないあざみをずっと思って生きてきたほうがいいや、って思った。でもダメだった、耐えられなかったよ」
波の音が聞こえる。
「あざみのいなかった2年間、まるで酸素のない海を泳いでいるような気分だった。あざみのいない世界なんて灯台のない夜の海と一緒。朝の来ない毎日と一緒。甘くないプリンと一緒。音楽のない世界と一緒」
真剣な彼には悪いけど、ちょっと面白かった。なんだろこれ。デジャブ?
内心呆れつつも笑っていたら掴まれている両手を引き寄せられた。ぐっと距離が近づいた彼は、甘えた子猫みたいな顔をして酷く悲しい表情で俺を見る。
「ねえだから俺を置いていかないで。どこにもいかないで。もう俺を一人にしないで……あーちゃん」
そんな顔で俺を見ないでほしい。
俺は真一文字に結んだ唇がふにゃふにゃになっていくのを感じた。
変な気持ちだった。ふわふわしていて、謎だった。ただただ体がぶわと噴火寸前の火山のように熱くなる。
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