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「名前なんていうの?」
「わ、航(わたる)です……」
翌日、オレは勇気を出して訪れた久々のゲイバーで、知らない男に声をかけられていた。初めての男と出会ったのも、このバーだった。
誰でもいい。奏ちゃん以外の男なら誰でもいい。
「オレは佐伯(さえき)。歳いくつ?」
「二十一……」
「若いね。大学生? 俺より一回りも下だ」
スーツを着て、できるサラリーマンって雰囲気の佐伯さんは、穏やかな笑みを湛えながらオレの頭に手を伸ばし、ゆっくりと前髪を梳いた。
「黒い髪がよく似合う……」
オレはその感触に目を伏せた。
こんなに優しく触れることも、こんなに優しい言葉をかけることも、奏ちゃんなら絶対にしない。この人ならオレのこと、大切にしてくれる気がする。恋愛ってそもそも相手を大事に想うことだよな? やっぱりオレと奏ちゃんとは恋愛してるんじゃないんだ。
胸の奥がギリッと痛み、苦い感情が生まれる。
「あ、あの、佐伯さん! 今日このあと、時間、ありますかっ?」
オレは目の前の佐伯さんに上ずる声で誘いの言葉を吐いた。
そのときのオレの顔は必死すぎて、奏ちゃんならきっと引いていたに違いない。
***
十九の秋、初めての男に捨てられた。
「う、うっ、うえうぇえっ、ぐしっ、うあああん」
深夜なのにまだ人通りの多い繁華街の片隅で、オレは打ち棄てられたゴミみたいに蹲って、バカみたいにワンワン泣いていた。
「おいおまえ、どうしたんだ?」
人目も憚らず泣いているオレを誰もが知らん顔で通りすぎていく中、唯一オレの前で立ち止まったのは、化粧の濃い女を連れて歩いてきた背の高い金髪の男だった。
「ふぐっ、うえっううっ、ぐすっ、うえあぁーん、うっう」
かけられた声に返事もできずに、オレは涙と鼻水をぐちゃぐちゃに垂れ流しながら泣き続ける。
「ちょ、なにその子、気持ち悪っ。男のくせにすんごい泣いてる。奏一(そういち)、も、行こ?」
そう言って眇めた目でこちらを見下ろした女の手を、男は急に振り払った。
「おまえのほうが気持ち悪(わり)ぃんだよっ!」
突然、男は女に向かって叫び出す。
え、なに?
「な、何よ、いきなり!」
盛られた髪を揺り動かしながら驚きに目を剥いた女も言い返す。
「てめぇのほうがどっか行けよ!」
「ちょっと奏一、どうしてそうなるのよっ!」
「おまえとは一回ヤっただけで充分だって思ってたんだよっ」
「し、信じらんないっ! 私だってあんたなんか、こっちから願い下げよっ!」
目の前で始まった痴話喧嘩に、オレはキョトンとした顔になって、涙の溜まった瞳をパチパチと瞬きさせる。
「あ、あの……?」
ふたりに向かって宥めるように両手を動かし、おろおろとした声をかける。が、ちっとも聞いてもらえない。
「さっさと行けよっ!」
「行くわよ!」
結局、女がツカツカとヒールの音を響かせて去っていった。
「い、いいんですか?」
不安げな顔で訊ねると、男がオレの前に腰を下ろした。ド派手なジャンパーから、きつい煙草の匂いが漂ってくる。目が合った。
間近で見た男の顔は怖いくらいに整っていた。切れ長の目は鋭くて、だけど、オレに向けられた眼差しはすごく優しかった。
「いいに決まってんだろ」
男はニッと笑うと、指先でオレの顎を掬い上げ、少し掠れた低い声で言ったんだ。
「おまえ、男なのにものすごい可愛い顔してんのな」
「!」
男の言葉にオレは耳まで真っ赤になった。
「ぶっ! 泣いたり赤くなったり忙しいな」
男の笑顔が胸の中に一気に沁み込んでくる。さっきまで他の男のことで泣いてたなんて信じられないくらいに、オレは目の前の男に心を奪われていた。
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