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後編:奏一の助走

『奏一、大好きよ』 仕事が終わり、夕闇が迫る倉庫の中でひとり片付けをしていたオレの耳に、ふと声が蘇る。 「くそっ」 その声を掻き消すように悪態を吐きながら、オレはずっしりと重いペンキ缶を棚に押し上げた。 風に乗ってやってきた遠い踏切の音を聞いた瞬間。 飲んだくれて帰ってきて布団に倒れ込んだ瞬間。 カーテンを閉める間際に夜空を仰いだ瞬間。 そんな些細な拍子に、オレの中でこの声が蘇る。 「お、奏一、片付け終わったか?」 倉庫から出てきたオレに声をかけてきたのは、オレが勤める近藤塗装工業の社長である、近藤さんだった。近藤さんはもうすぐ五十になる大柄な体格の男性で、日に焼けた顔にはその穏和な人柄を表すように深い笑い皺が刻み込まれている。 「ういっす、近藤さん。あ、オレ、今日晩飯いらねっすから」 「了解、母ちゃんに伝えとくわ」 そう答えて、近藤さんは事務所の引き戸に手を掛ける。しかし、戸を少し開いたところでまたこちらを振り返った。 「その後、親父さんの具合はどうだ? 会いに行ったのか?」 「あー、また病院に逆戻りっす。施設のほうでだいぶ良くなってたみたいなんすけど」 オレは少し目を伏せ、ポケットから煙草を取り出す。 「そうか、オレも来週あたり行ってみるからよ」 「すんません、近藤さん」 「なに、奏一が謝ることじゃねぇさ」 近藤さんは気さくな笑顔を残して、引き戸の中に消える。 オレは店先に座り込んで煙草に火を点けると最初の煙を吐き出した。薄暗くなってきた冬空には星が瞬き始めていた。 その時、尻ポケットに入れておいた携帯電話が震える。 航からのメールだ。 あいつはいつも、大学の授業が終わったとか、学食の飯がどうだとか、拾った猫がどうしたとか、どうでもいい内容を送ってくる。 オレは煙草を咥えたままそれを読むと、頬を緩ませた。 ……航は他の男と寝た。 過ぎたことにはいちいちこだわらねぇが……、その理由が……。 「はあ……」 オレは煙草の煙と一緒に溜息も吐き出す。 あいつはなんであんなに『好きだ』という言葉にこだわるんだ? しかも、嘘でもいいから好きだと言ってくれ、と言われたことがある。 嘘でもいいって、なんだ? それじゃまるでオレが……、くそっ。 オレはまだ吸い始めたばかりの煙草を、イライラした手つきで地面に揉み消した。

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