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「はああ」 俺が深い溜息と紫煙を吐きながら、三本目の煙草を吸い終えた時だった。 向かいのホテルからひとりの男が出てきて目の前の路地を通り過ぎていった。 あーあ。まだこんな日の高いうちから羨ましいことで……。 凝り固まってきた肩を解すように腕を頭の上に伸ばしながら、俺は再びホテルに目を向けた。するとまた自動ドアに人影が近づいてきた。 ドアが開き切るのを待ちきれないといったふうに、隙間から身を捩って外に出てきたのは、……東海林課長! え、もう? まだ二、三十分しか経ってないぞ? 東海林課長の黒髪は乱れ、ウエストからはシャツがはみ出ていた。腕にはネクタイがぶら下がっている。課長は財布に紙幣を突っ込みながら路地を小走りに駆けていく。 ひとりか? 女はどこだ!? 東海林課長が出てきた自動ドアに目を凝らすが、あとからは誰も出てくる気配がない。 「ま、待って!」 その時、東海林課長の切羽詰まった声が路地の先から聞こえてきた。慌てて看板の陰から身を起こす。課長は財布をスラックスの尻ポケットにねじ込みながら、視線の先の人物に声を張り上げていた。 「イワオさん! 僕、待ってるから! また、連絡くれるの、待ってるからっ!」 ……はあ? イワオ、さん? 俺は東海林課長の背中の先を視線で探った。でも路地の先は大通りに繋がっていて、そこを闊歩する老若男女の雑踏が見えただけで、課長がどの人物に声をかけているのかは特定できなかった。 どういうことだ?  女じゃなく、先に出て行った男が、東海林課長の連れだったってわけか?  あまりにもノーマークだったんで男の風貌なんて覚えていない。顔もロクに見てないし、背格好すらよく思い出せない! ……ってか、なにか?  ということは……、東海林課長は……、実は……。 恐る恐る東海林課長に視線を戻すと、その背中が小刻みに震えていた。課長はスラックスのポケットからハンカチを取り出し、目頭を押さえ始める。 ま、まさか……、泣いてる……? しかもなんなんだ? 誰もいないからって、あの東海林課長が通りで縋るような声で叫ぶなんて……。 ああ、訳がわからねぇ! 俺が右手で顔を覆うようにこめかみを揉み、混乱する頭を抱えた時だった。ぐすっと鼻を鳴らしながら東海林課長がこちらを振り向く。 あ、やべ! そう思ったのも束の間、隠れる余裕もなく、東海林課長とばっちりと目が合ってしまった……。

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