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「さ、笹川君、こんなところで奇遇だね」
瞳を僅かに伏せながらもぎこちない笑顔を作り、途端に上司の顔に戻ろうとする東海林課長。
こ、この人、何もなかったかのように、取り繕おうとしてる!
シャツはみ出してるくせに!
「課長こそ、もう仕事終わったんですか?」
俺は冷静に切り返す。
「舞浜さんが課長のこと捜してましたよ」
「そ、そうか。じゃあ急いで工場に戻ろう。では、笹川君また明日……」
東海林課長が俺の脇をすり抜けようとする。その肩を俺はがっしりと掴んだ。課長も背は高いが、俺の方が少しばかり見下ろす形になる。
「……で、ここで何してたんですか? 東海林課長」
一段低くなった俺の声に課長の肩がギクリと固まる。
「仕事ほっぽり出してこんなことしてたら、社内での信用が落ちますよ?」
俺は内心呆れながらも警告を発した。俺に知られたことを機に行動を慎んでくれればそれに越したことはない。
まあ、東海林課長もこの状況がいかに自分の今後を左右するかを理解してくれるはず……。
「さ、笹川君っ!」
しかし課長は突然、上ずる声で俺の名を叫んだ。
「え?」
しかもくるりと俺に向き直ると、悲嘆に暮れた顔で俺の両腕にしがみついてきた。
「え、ちょ、なんすかっ!」
麗しげな切れ長の瞳には今にも零れ落ちそうなほどの涙が満タンに溜まっている。
「笹川君! ぼ、僕からイワオさんを取らないでくれっ!」
「は、はあ?」
素っ頓狂な声を上げてしまった。
「お、お願いだっ! 笹川君!」
東海林課長は叫んだ拍子に頬に涙を零しながら、鬼気迫る迫力で俺に詰め寄ってくる。
「ちょ、待ってくださいよ、なんでそうなるんすか! 俺はただ行動を慎めって……、ってか、イワオさんて誰なんすか!?」
ぼたぼたと涙と鼻水を落としながら俺に訳のわからないことを懇願するこの男は、本当にあの東海林課長なのか!?
「笹川君っ!」
「ちょ、近い、近いっ!」
ぐいぐい近寄ってくる東海林課長を両腕で押しやりながら、混乱する頭で必死に考える。
この状況は想定外だ!
「ねえ、あれ何?」
「ホモ?」
路地を歩くカップルが俺たちを見てはこそこそと囁いている声が聞こえてくる。
ちょ、マジかよ! これじゃまるでホモカップルの痴話喧嘩みたいじゃねーかよ!
くそっ!
「笹川君! 僕はイワオさんがいないと……」
「ちょっと、課長っ! あ――っ! もうっ」
何かを訴え続ける東海林課長の腕を無理やり引いて、俺は人目を避けるため渋々向かいのホテルの自動ドアに向かった。
俺の中でできあがっていた東海林課長像がガラガラと崩れ堕ちていく音を聞きながら……。
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