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第六話「雨と傘と課長」
俺は品質管理課の実験室でいつものように仕事をしていた。
「舞浜さん、液クロ空きましたよ? 次、使うんでしょ?」
「ありがと! 今行くわ」
液クロとは液体クロマトグラフィーの略称で、物質を分離分析する装置のことだ。
検査結果が出揃い、記録紙を自分の机に置くと、一服しようと実験室を出る。すると長い廊下の向こうから東海林課長がひとりでこちらに向かって歩いてくるのが見えた。俺は内心溜息を吐く。
「あ、あの、さ、笹が……」
誰もいない廊下で、すれ違いざまだった。課長は恐る恐る俺に声をかけてくる。
しかし、俺は立ち止まらなかった。前を見たまままっすぐに歩き続ける。目の端で課長が伸ばした右手を所在なく下ろし、力なく項垂れるのが見えた。
俺は廊下の角を曲がり課長から離れてしまうと、しだいに歩くスピードを落とし、その場に立ち尽くした。胸の奥がひりひりと痛んでいた。
東海林課長の部屋に置き去りにされてから、十日が経っていた。
あれから課長とは一言も話していない。というか、俺が課長を避けていた。
課長は喫煙室やトイレなど人が少ない場所で何度も俺に声をかけようとしてきた。だが、俺はそれを無視し続けている。
練習台にされたから。
俺を置いてイワオさんの元へ走ったから。
いや、違う。そんなことじゃないんだ。
『それでも、僕は行きたいんだ』
俺の本当の怒りは、東海林課長が自分自身を大切にしようとしないことだった。
いくら好きだからといってイワオさんにあんなに都合よく振り回されて、いいように扱われて……。しかも、そこに自ら突き進んでいく課長に、俺は腹が立ってしょうがなかった。
これまで俺は東海林課長を甘やかし過ぎたんだ。もし今度も俺があの人を許してしまったら、きっとまたイワオさんの行動に一喜一憂して、哀しい出来事があると俺に泣きついて……、という日々を繰り返すに決まっている。
俺は喫煙室から戻ると、報告書を作成するために記録紙を持ってパソコンの前に座り込んだ。その画面を見ながらも、俺の脳裏には東海林課長の笑っている顔が蘇ってくる。そして、思わずキスしそうになった、泣いている顔も……。
課長が俺の前だけで見せる泣き顔を思い出すと、ゾクリとする感情が背筋を走る。俺はあの顔で自分の気持ちに気づいてしまったんだ……。
思わず頭を抱える。
泣かせたくないと思っていたはずなのに、俺は心のどこかで課長が泣くことを望んでいるんじゃないのか?
あの人が泣いて、俺だけを頼ってくることが本当は嬉しいんじゃないか?
ああっ、もう! 何考えてんだ、俺! めちゃくちゃ矛盾してるじゃねぇか!
そんな想いを断ち切るように、俺は頭を振ってパソコンの画面に向き直ると、今度こそ報告書を書き始めた。
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