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最終章「さよなら、課長」

東海林課長の解雇が撤回されることはなかった。 俺は異動の辞令どおり、松岡工場を離れ、元の人事部で仕事をしている。次の特命を受けるまでは本社でルーチンワークの日々だ。 「よう、笹川。もうすぐ次の特命が出るらしいぞ?」 中原がコーヒーの入ったマグカップ片手に陽気な声をかけてくる。 「そうか」 俺は自分のデスクでパソコン画面に目を向けたまま、ただそう答えた。 「おい、それよりおまえ、最近ちゃんと家に帰ってんのか? ワイシャツよれよれだぞ?」 「ああ、大丈夫だ」 「何が大丈夫なんだ? もしかして、まだあの辞令のこと、引き摺ってんのか?」 「……そんなわけ、あるか」 中原に苦々しく返事をしながら、止まりそうになった指先を無理やり動かす。 俺はすべてを忘れたいがためにここ二週間、仕事に没頭していた。何かを考える時間の余裕が怖くて、土日も出社している。 もう、何も思い出したくないんだ。 あの二ヶ月間の品質管理課での出来事。自分の気持ち。 早く、早く忘れてしまうんだ……。 「おまえは優し過ぎんだよ。この仕事は非情さがないとやってけないぜ?」 中原は呆れた眼差しで俺を見やりながら、立ったままコーヒーを飲んでいる。その時、同じ人事部の女性が書類を持ってやってきた。 「笹川さん、これ、ファイル作りましたから後の管理はお願いします」 「ああ、ありがとうございます」 俺はパソコン画面から視線を移し、ファイルを受け取った。そして何気なくそのタイトルを見て、一瞬息が止まりそうになる。 「お、おい、笹川? どうしたんだ?」 それは、俺が書いた東海林課長の最終報告書だった。 「……っ」 俺はファイルを胸に抱き締め、顔を埋めた。 だめだ、忘れることなんて、できやしないんだ……! 二度と浮き上がらないよう記憶の沼へ押し込めたはずの光景が、想いが、次から次へと蘇り、胸に押し寄せてくる。 課長と一緒に行った居酒屋の喧騒。 課長と一緒に観たつまらない恋愛映画。 課長の涙で濡れたハンカチ。 タクシーの中からか細い声で言われた『ありがとう』って言葉。 ゴミ集積室の匂い。 課長の部屋の座布団の模様。 課長を抱き締めた時に頬に伝った雨の滴の冷たさ。 そして何より、俺の課長への気持ち――! 目眩がしそうなくらいにまざまざと自分の気持ちに晒される。 「笹川……、おまえ……」 中原の戸惑った声が頭上を過った。 俺は胸の痛みに、俯いたまま歯を食い縛った。

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