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その日の夜、俺は東海林課長のマンションを訪れていた。九月も終わりに近づき、夜風には秋の気配が感じられる。
俺は大きく深呼吸をすると、課長の部屋の呼び鈴を押した。
『ピンポン』
こぎみいい高い音色が響くと、課長の青い傘を握り締める手のひらが汗をかいた。課長が俺のアパートに忘れていった傘だった。一度アパートに戻ってこれを取ってきたのは、課長の部屋を訪れる理由が欲しかったからかもしれない。
しかし、しばらく待っても扉が開く気配はなかった。
溜息を吐き、傘を扉の横に立て掛けると、課長の部屋の前から歩き出した。
もう一度、呼び鈴を押す勇気はなかった。
「……はい?」
背後で扉が開く音と東海林課長の小さな声が聞こえた。俺はビクリとして立ち止まると、すぐさま振り返った。扉から少しだけ、課長が顔を出していた。
「東海林課長……!」
俺は思わずその名を呼びながら扉の前に走って戻る。
「笹川……君? どうしたんだい?」
青いシャツに裾の長さが足りていないチノパンという格好の東海林課長は俺の姿を認めると拒むことなく、その扉を開けた。しかし、中に入れとは言われなかった。
「あ、課長、これ……」
俺は立て掛けていた傘をもう一度手に取り、課長に差し出す。
「ああ、わざわざよかったのに……」
課長は小さく苦笑いしながらそれを受け取る。
傘を渡してしまうと、俺は空いた手のひらを所在なく握り締めた。
「元気、でしたか……?」
「あ、ああ」
俺の窺うような問いに課長が伏し目がちに答えた。
「…………」
その後の言葉はもう出てこず、俺は黙り込んでしまう。
課長も何も言わない。
通路の煌々とした電灯の灯りが俺と課長を真上から見下ろしている。
ふと課長の背後に目をやると、たくさんの段ボール箱が積まれているのが見えた。ドクンと心臓が鳴る。
「か、課長、もしかして、引っ越すんですか!?」
「ああ、もうここにいる意味もないしね。今、それでバタバタしてて……」
「ここを出てどこに行く気なんすか? まさか、イワオさんのとこじゃ……」
被せ気味に焦った声を上げた俺から、課長はぷいと顔を背けると、静かに答えた。
「……君には、関係ないことだろう」
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