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106.
たっぷり取れた昼休憩に困惑し、それでも予定通り17時過ぎに終わった測定に困惑する。おかしい、今日やること終わったよ?
「きょ、教授ぅ」
「どうかしたか?」
「今日の分、終わり?」
「そうだな、まだゼミ生いるから俺は残るけど伊藤は帰っていいぞ」
「こんな時間に?明日から日を跨ぐほど忙しくなるとか言わない?」
「それか実は俺が持ってくるサンプル数間違えてたとか?一桁間違えたかな。おかしいよ、17時過ぎだよ?いつもなら今からが本番だぁ!ってみんなで叫んで栄養ドリンク流し込んでる時間だよ?」
「伊藤が今日やるって言ってた予定のサンプルは全部あった。全部データも取ってる。大丈夫だから家に帰れ。明日はもう少し落ち着いて来い」
「明日は忙しくなる?」
「この調子だ」
明後日は?明々後日は?としつこく確認する俺に、苛立ちを隠さない教授は乱暴に荷物を持たせて研究室の外へ追いやった。
そうして、呆然と荷物を持ったまま立ち尽くす俺の肩を誰かが叩いた。
「ひぁああっ!ごめんなさい!すみません!働きます!帰ろうとしてごめんなさい!」
「?」
びっくりして飛び跳ねながら叫ぶ。そのままの勢いで振り返ると、そこに居たのは彩綾だった。
「なんだ、彩綾かあ。教授なら中だよ」
「違うよ。誠に用があってきたの」
俺に用事?
今更なんだろう……。散々電話口で言いたいこと言われて、当時はなかなか傷ついたんだけどなあ。
「なぁに?」
彩綾は答えずに一歩俺に近づいて、綺麗に笑って思いっきりビンタをぶちかました。
パチーンって音と、俺がいったあっ!と叫ぶ声はほぼ同時だったと思う。なんで!?なんでいきなり叩かれるの!?
訳がわかんなくてただ彩綾を見る。
「あと2、3発良い?」
「良くない!なんで!?俺なんか叩かれるようなことした!?」
「した」
「いつ!?」
「私、誠のこと大好きなんだよ」
へ?ちょっと、叩いた理由は?好きだからとかだったらマジで意味わかんないよ。好きな人痛めつけるなんて趣味悪………い人はたくさんいるね、ごめん。
「でも、働いてる誠は嫌い」
「疑って、泣いて、怒って、傷ついて、そんな自分がバカみたい」
ああ、そっか。こういうところは全く変わらないな。
自分を大事にしない人のために、彩綾は何もしない。自分のことを大事にする彩綾は、自分を大事にしない人のために泣くことも傷つくことも嫌う。そうするだけ、自分の涙が、傷つく心がもったいないと言ってた。
それが正しいとも、間違ってるとも俺は言わない。ある意味、剥き出しの自分で相手と接する彩綾は、猫をかぶって嘘ついて良い子ぶる子より、よっぽど魅力的だと思う。
「私ね、誠のこと本当に大好きなの」
「誠と付き合ってた時、誠が卒業するまでは本当に楽しかった。けど、この一年は誠を好きなのに泣いてばっかだった。もう、辞めたい………」
俺に縋るように、静かに泣いた彩綾。
今はいきなり叩かれて、別れた時は一方的に暴言と悪口を言われた。それなのに、それをされた俺ではなく、した彩綾の方がよっぽど傷ついていた。
それなのに、俺の手は慰めるために動こうとはしなかった。そうしちゃだめだと、分かっている。
「彩綾」
「俺、浮気はしてないよ」
「うん」
「けど、今はもう、彩綾よりもずっとずっと大事で特別な人がいる」
「っ」
ちょっと、人に言えるような関係ではないけど。
この言葉が彩綾を突き放すと分かっていても、傷つけると分かっていても、もう受け入れられるはずもない彩綾のことを受け入れる方が残酷だ。
彩綾が1人で終わりに出来ないなら、きちんと終わりにさせた方がいい。少しワガママなところはあるけど、自分のことも、相手のことも大事にできる。少し不安症で、距離が離れるのが苦手だったと言うだけだ。これからは彩綾のそばから離れない人を好きになって、そんな人を大事にして、大事にされるべきだと思う。
こういう時、俺はおにーさんが恋しくなる。
もの寂しくて、おにーさんにぎゅってして欲しい。
今、彩綾が言葉に出さず視線で俺にねだることを、俺はおにーさんにねだりたいんだ。
慰めることをしない俺に、彩綾は寂しそうに笑って背中を見せた。俺が今週いっぱい居るのは知っているだろうし、もしその間に話したいことができたのならちゃんと聞こうと思う。それで彩綾が終わりに出来るのなら、それが俺が取れる最後の責任だと思った。
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