156 / 438
156.
旅館を一通り探検して部屋に戻ると、すでに夕ご飯の準備が始まっていた。
部屋の前に止まったワゴンにはたくさんの料理が積まれていて、見ているだけで美味しそうで、思わず口から感想が漏れる。
「ふあぁ、美味しそぉ」
くすっと笑う声が聞こえて振り返ると、年配の仲居さんが優しげに笑っていて、もう少しで食べられますよと言ってくれた。中へどうぞと通してくれた部屋の中にはすでにいくつか料理が並んでいて、お品書きみたいな紙も置かれていた。
「探検できたか?」
「うん。お風呂の場所もバッチリだよ」
「そりゃ安心だな」
「お風呂は何時から?」
「20時半」
ってことは2時間後か。ゆっくりご飯を食べても胃が落ち着くまでに十分な時間を空けてくれている。おにーさんとの旅行はドタバタ慌てることもなく、スケジュールに余裕があって流石だ。
料理が全て並んで、仲居さんはアワビの焼き方や焼いて食べる料理の説明を丁寧にしてから、食器の片付けや布団を敷く際はフロント9番にお掛けくださいと言って部屋を後にした。
「火つけるか?」
「うん!」
着火マンでアワビの踊り焼きに火をつけてくれて、俺は踊るアワビを眺める。そして、待ちきれない俺。
ぐぅ〜
ぐぐぅう〜
と鳴り響いて空腹を訴える俺のお腹。
アワビはもう少しかかるし、食べ始めようとお箸を手にとって食べ進める。アワビの踊り焼きのお世話はおにーさんがしてくれて、食えるぞと言われた時には食べやすいようにナイフも入れてくれていて至れり尽くせりだった。
もちろん今回もデザートはおにーさんのものも貰って、俺のお腹はパンパンだ。さすって見ると胃のあたりが少しぽっこりしていた。
「食い過ぎ」
「ふふっ、お腹パンパンでしょ?」
「マジパンパンだな」
ごろーんと転がる俺のお腹に手を伸ばして、おにーさんまでパンパンのお腹をさする。どれどれおにーさんは?とおにーさんのお腹にぺちっと手を伸ばしてみたけどそんなにパンパンにはなっていなかった。
おにーさんを早く行こぉ!と急かして貸切風呂に向かう。貸切風呂は旅館の端の方にあるけど、掃除は丁寧に行き届いていてとても綺麗だった。おにーさんが鍵を開けて、その後ろについて中に入る。廊下よりもほんのり明るい感じがするけど、やっぱり明るすぎない照明。雰囲気作りが上手いなぁと心の中で拍手を送った。
頭と体を洗い、肩までお湯に浸かる。
たくさん歩いた疲れが抜けていくよう気がする。隣にいるおにーさんも気持ちよさそうに目を瞑っていて、隙だらけだと思った。無防備でちゅーできそうなんて思ったけど、おにーさんは今日、ゆっくりのんびり浸かりたいって言ってた。
忙しいって言いながらもご飯を欠かすことも、俺に八つ当たりすることもなく頑張ってたおにーさんのご褒美なんだからとぐっと我慢する。気分は目の前に大好物のお肉を置かれてお預けを喰らう腹ペコの犬だった。
おにーさんがそんな俺に気づいたのはしばらくしてからで、睨むようにじっと見つめる俺を見てふはっと笑った。
「ばかばかっ!放置はひどい!」
「待てもできるんだな」
いや、あんま待ててないかとその手を伸ばして俺の体を撫でる。意地悪な触り方だけど、じっと見てるだけよりずっと良い。
「誠」
「はぁい」
「噛んで良い?」
「ふえ?」
「やっぱ俺には無理だわ」
「なにが?っッ、痛いよっ!?」
そう言って俺の体を撫でてた手を体に回して引き寄せ、ガブッと鎖骨のあたりを噛まれた。
せっ、せっかく温泉に来たのに!
明日の朝はふふん朝風呂って思ってたのに!今になって!?せっかく下の毛だってまあ心許なくとも温泉くらいはってくらいにはなったのに!?
こんな歯形付けて大浴場なんて無理じゃんっ!
泣き叫びたい気持ちと、ガジガジ噛まれて痛くて叫ぶ声と、俺の背中をそっと撫でる手がくすぐったくてもどかしいので忙しくて口から文句は出てこない。
「っ、お肉あるとこ、にしてっ」
「肉なんてほとんどねえだろ」
「アッ!!」
鎖骨のあたりは噛まれると痛い。せめて骨が出てないところにしてと言えば耳の下あたりを噛み直される。ああもお無理だ、今回も大浴場は見送ろう。
「俺がさ、この体に欲情するんだよ」
「う、ん?」
「わざわざ裸になるようなところに行かなくて良いだろ」
「………」
向けられたのは独占欲。
男が男に欲情するなんてまあ滅多にないはずだけど(今は自分を棚上げすることにする)、おにーさんはそれでも嫌だと言う。
そんなおにーさんを抱きしめて俺が言ったのは、可愛いって言葉だった。
そんな風に思ってるなら言ってくれたら良いのに。
「行かない。いい、俺貸切風呂で十分だよ。大好き」
俺が大浴場に行きたいと知って、行かせようとしてくれたことは素直に嬉しい。結果行けないみたいだけど、その理由がこれなら、俺はおにーさんと入る貸切風呂で十分だ。
ともだちにシェアしよう!