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そんな重たい話をした週末だけど、俺と穂高さんは至って平和に過ごした。 相変わらずぐうたら過ごす俺と、家事をこなしつつ俺を構ってくれる穂高さん。俺の気が向けばお手伝いをしてみるけど、穂高さん1人でやったほうが早いじゃ?と俺でさえ思うことがあってもしなくていいと言われたりしない。 相変わらず、火や包丁を触らせては貰えないけど。 そうしてたっぷりと穂高さんと優しい時間を過ごした俺は月曜日、元気に出勤した。 事務所でタイムカードを押そうとすると、普段ならそこに人影はないはずなのにその奥に座った人影が見える。 こんな早くから技術部以外がいるなんて珍しいなぁ。技術部のメンバーならタイムカード押したらすぐに技術部の部屋に移動してるし、誰だろう。 「おはようございます」 そう声を掛けれてその人を見る。 やっぱり見覚えがない。 「おはようございます。1日付で本社に戻って来た山口です」 「あ、鈴木さんの同期の方ですか?」 「そうそう。聞いてる?」 「同期が戻ってくるから飲みに行きたいという話をしました。俺は技術部の伊藤です、よろしくお願いします」 「よろしくお願いします。5年本社開けてたから俺の方が聞くことばっかりかも」 鈴木さんの同期らしい山口さんは、たぶん思ってないことを言いながら親しみやすい笑顔で言った。 話しやすくて明るい人でつい話し込んでしまい、俺の知らない関西の話や、関西の方で出た貴重なサンプルの話なんかも教えてくれて、楽しかったし勉強にもなった。 「本社が1番サンプル集まるけど、現地じゃなきゃ見れないものもありますね」 「だなぁ。大阪の支社はいい人ばっかりだったし、いつか行くんじゃない?」 「俺、転勤NGです」 「技術部なのに?」 「はい。東京から出たくないんで」 「出世コースなのに」 「出世にあんまし興味がないです」 俺は俺なりに楽しんで研究をしているだけだから、それが評価されるのは嬉しい。だけど出世には繋がらなくていい。 「俺は評価されたいけどな。それもあって大阪行ってたし」 「俺にはない向上心ですけど、持ってる方が働き甲斐ありそうです」 「でも実際、そうして欲ない方が出世していくのが世の中なんだろうな」 「そうなんですか?」 「欲しいものって絶対手に入らないように出来てんの。そう思わない?」 あくまで明るい口調で、そんな寂しいことをさらっと言う。その様子は完全に諦めているのが伝わるけど、俺は山口さんの欲しかったものは分からないから何も言えない。 「手に入れようとするから苦しいんだと思います」 「え?」 「果報は待てみたいなこと言いませんか?」 「それ果報は寝て待てだと思うな」 「どっちでもいいですけど。手に入れようとして手に入らなくて苦しいなら、落ちてくるのを待ってみるのもいいかもしれません」 そうしてるのは俺じゃなくて俺の好きな人だけど。 落とす準備だけは着実にしていて、だけど押しはしない。そこに俺が入ってくるのをただ楽しそうに待っている。 「なんか新鮮な意見だな」 「頑張りすぎると疲れちゃいますよ」 「………後輩に励まされるってどうなんだろ」 「俺は楽しく話しやすい山口さんに会ったことだけ覚えておきます」 初めてあった俺にけろっと話すようなことだから、重要じゃないかもしれないし、諦めすぎて誰にでも話しているのかもしれない。 「ここ、俺が大阪行く前は大型の部長って伊藤さんだったけど今は?」 「今も伊藤さんです」 「伊藤くん名前は?」 「誠です」 「まこちゃんか」 「なんでそんな可愛くするんですか」 「愛称の方が親しい気しない?」 「まこくんにしません?あ、でもそれはそれでやだな」 「おい」 「そんな可愛い呼び方姪っ子からだけで十分です」 姪っ子の辿々しいまこくん呼びは最高だ。大きくなってきた姪っ子はなぜか誠と呼び捨てにしてるけど、どっちにしても最高に可愛いからいいのだ。 けど、自分より年上の会社の先輩からまこちゃんなんて呼ばれてもなんの嬉しさもない。 誰が見ても嫌な顔をしてただろうに、人の良さそうな笑顔でまこちゃんと呼んだ山口さんのことは諦めることにした。

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