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「伊藤くん、今日も遅いね。無理してない?」 「………無理してるかもしれません」 「伊藤くんも大変だね」 「まこちゃーん」 今日も夜な夜なデータをまとめる俺に、帰る準備を終えた野田さんが不憫そうに声を掛けた。4月に入ってから俺は圧倒的に残業が増えた。いや、正確に言うと山口さんが来てからだ。 「もう嫌ですよ!山口さん納期って言葉知ってます?」 「知ってる知ってる。これ、明日の昼に持って行きたいんだけど」 「だから納期!今何時だと思ってるんですか!俺の時間!限りある俺の時間!」 「ほら、差し入れ持って来たし俺も手伝うし」 そう言って営業帰りに買って来てくれたらしい牛丼とコンビニで買ったらしいシュークリームなんかが見える。 これについ食いついてしまい、俺は仕事に追われるのだ。 終わりない仕事が降ってくるのに、珍しく痩せないしやつれないのは山口さんの差し入れと、テンポ良い会話が降ってくるからだと思う。 「くっそぉお、俺の胃袋め、こんなのに釣られるなんてっ」 「こんなのって、ちゃんと吉○家で買って来たのに」 「家で食べる牛丼の方が美味しいもん」 「そんな料理うまい彼女なの?」 「違いますよ、スパイスが効いてるんです」 「牛丼に?」 俺はそれにコクリと頷く。 穂高さんのあったかい愛情っていうスパイスが詰まってる。たとえ本人がなんと言おうが俺はちゃんと愛情の隠し味が入ってると思ってる。 そもそもこんな仕事のデータに囲まれた事務室で食べるご飯より、すっきり片づいたテーブルの上で食べたご飯の方が美味しいに決まってる。 「まこちゃんってちゃっかり彼女と同棲しててやるなー」 「うるさいです。っていうかなんでそんなの知ってるんですか」 「ん?慶子ちゃんが教えてくれた」 「鈴木さんのおしゃべり!!!」 鈴木さんってばほんと、お口のチャックが緩いんだから。 俺がそういうのバラされても別に怒んないタイプだと分かってるからだと信じたい。間違っても会社の守秘義務をぺろっと滑らせていることはないと信じたい。 「っていうか鈴木さんって山口さんより年上じゃなかったですか?」 「そうなんだけど、俺の同期はみんな慶子ちゃんって呼ぶと思うけど」 「残念ながら今本社に残ってる鈴木さんの同期って山口さんくらいです」 「あー、そっか。入社当時、中型と精密に鈴木さんって居てさ。鈴木が3人も居て、同期は慶子ちゃんって呼び始めたんだよ」 「3人は多いですね」 「そう。それに慶子ちゃんはOJTのあと精密に行ったから精密に2人鈴木さんが居たんだよ」 「それは大変です」 鈴木さんが精密上がりなのは知ってるけど、そんなこともあったんだな。精密は今でも両手で足りる少人数でやってるから、そんな中で鈴木が2人もいるなんてちょっとややこしい。 「はぁ、山口さんのおかげで色んなこと知っていくけど、山口さんのせいで俺は家に帰れない」 「まこちゃんってそんな彼女に会いたいの?一緒に住んでるなら帰ったらいるくない?」 「寝てるのと起きてるのでは大きな差です」 「あ!分かった!いやぁ、まこちゃん若いね」 そう言って山口さんは俺の顔から視線を下ろして、俺の下半身を見て止まる。 「セクハラだあっ!」 「なんも言ってないのに?」 「見た!やらしい目で見られた!」 「あはは、元気だなぁ。俺そんな毎日なんてもう無理」 「まだ仕事中ですよね?」 「別に良くない?下ネタにもなんないし」 「人の性生活聞いて楽しいですか?」 「楽しい」 うわぁ、この人だめだあ。 話しやすくて嫌いじゃないけど、ちょっとなぁ。 「山口さんってもしかして下半身ゆるゆるの人ですか?」 「あ、なに?ヤリチンかってこと?」 「もお良いです」 「ごめんごめん。そうでもないよ、そこまでひどく遊び散らしてない」 「遊んでないとは言わないんですね」 「まこちゃんだって遊んだことくらいあるんじゃない?」 「残念ながらありません」 「まっじめ〜」 全然そう思ってなさそうな口調で真面目と言われてもな。 付き合ってもないのにエッチする人ってそんなに多いもの?意外と多いんだなということは学んだつもりだけどここにも居た。 「ってことは彼女ともそんなにしない?」 「答えませーん」 「生意気だな」 「ふーんだ」 こんな感じで社内で山口さんと本当に下らない話をしながら軽く食べて夜中まで仕事をする。もちろん家に帰ると用意されている穂高さんのご飯だって俺は美味しく食べている。

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