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第2話 あかちん

 もうすぐで二時半、か。  三時でランチが終わる。ちょうど、昨日のこのくらいの時間に……。 「すみませーん。唐揚げにぎりと、ジャコ菜にぎり、一つずつ」 「はーい、あ」 「よぉ」  注文の声に顔上げたら、幼馴染の永井がいた。声で気が付けよって、薄情な奴だと嘆きながらカウンターのところに腰を下ろし、店内をぐるりと見渡した。 「すげぇな、店、けっこう繁盛してんじゃん」 「ばーちゃんの功績だろ」  永井は肩を竦めてから座り直すのと同時、手前に出されたおにぎりに目を丸くした。早いなって笑って、にぎりたてのジャコ菜をぱくりと頬張った。 「まさか、お前が店継ぐとはなぁ」 「……まぁな」 「しかも、美味いでやんの」 「まぁな」  小学生の頃からの付き合いだった。ばーちゃんのおにぎり屋はそのままばーちゃんのうちに繋がっていて、よく学校終わりにランドセルだけを家に置いてきた永井と裏手で遊んでた。小さな庭があって、山椒やらミョウガやらを栽培しているそこで、バッタだなんだと捕まえてたっけ。 「今も山椒とかあんの?」 「あるよ」 「そっかぁ」 「……そんで? 今日は、にぎり飯食いにだけ来たのか?」 「んー?」  まぁ、腐れ縁、だからな。 「なんだよ」 「んー、いやさぁ」  なんとなく察しがつくんだ。 「今度、さ……結婚しようかなぁ……と思ってさ」 「へぇ、美穂子さんと?」 「んー、まぁ、っつうか、あいつに、さん付けとかいいから、あ! そんで! 誰にも言うなよ! まだ誰にも言ってねぇんだから」 「なんでだよ」  照れ臭そうに笑って、唐揚げにぎりを口に放り込む。ジャコ菜のほうが好きなんだなぁと思いながら、それを眺めてた。永井は好きなものから食うタイプだったから。  俺は最後に食うタイプだから、よく、ダメにしてた。 「早く言えよ。かっさらわれるぞ」 「はは、それはねぇわ。美穂子だぞ?」 「お前、未来の嫁さんに失礼な奴だなぁ」 「いいんだよ」 「そんなんじゃ捨てられるぞ」  照れ隠しに笑う永井の皿の上にジャコ菜を乗っけた小さな冷奴の小鉢を乗っけた。 「……お前は、しねぇの?」 「俺はいいよ、別に」 「……ふーん」  笑ってみせると、永井も笑って、ちょうどその時、女性客が二人やってきた。永井は自分だって客のくせに邪魔をしないようにと思ったのか、冷奴を簡単に口に放り込んだ。 「ごっそさん。なぁ、照葉(しょうよう)」 「?」 「……また、食べに来るわ」 「あぁ、今度は美穂子さんと来いよ」  そう言うと腹でも痛そうに顔をしかめて店を出ていった。 「すいませーん。えっとぉ、鮭おにぎりとぉ、明太子」 「私は、たらこと、あと、いくら」 「はい」  俺は、しない、な。結婚とか、今は。  ――え? 照葉、会社、辞める、の? 私っ。  ――あぁ。なぁ、そしたら。 「……」  今は、ちょっと、無理そうだ。 「はい。お待たせしました」 「わ! 早い! あの、写真撮ってもいいですか?」 「おにぎりの、ですか?」  店の戸が開いて、カラカラと乾いた音を立てて、顔を上げたら。 「いらっしゃ…………ぃ」  猫が、いた。この前、苦手な雨に、いや、俺の迷文にかな。嫌そうな顔をしていた野良猫が、そこに立っていて、今日は仏頂面をしていた。  君はまるで散歩中の猫みたいにふらりとやって来るって言ったら、「悪かったね」と膨れっ面でそっぽを向く。そんなところも猫っぽいと思うのだけれど。 「返しに来なくてよかったのに」  もう古いものだから、そのまま捨ててしまっていいよと言った。わざわざ戻してもらうのは申し訳ないから。 「す、捨てるのだって、今のご時世有料なの!」 「なるほど、たしかに」  彼はプイッと顔を逸らした。 「風邪、引かなかった?」 「……まぁ」 「そりゃよかった」  あまりに雨がすごい日だったから、飛び出していこうとした彼を捕まえて、黒い長靴と傘をあげた。サンダルにあんな寒そうなロンTじゃ、風邪を引きそうで放っておけなかった。長靴はもう色気も何もないただのビニール製ので、店の閉店後、床の水洗いの時に使ってたものだった。もう古びてたし、買い換えたいなぁと思ってたくらい。傘は男物の黒い傘で、畳んだ時の痕がくっきりと色あせて残ってしまっていたから、こっちもこっちであまり使ってなかった。  だから本当に捨ててしまってかまわなかったんだ。  って、そうか、捨てるのも有料だから持ってきてくれたんだっけ。 「今日はサンダルじゃないんだ」 「……まぁ」 「耳朶、まだ腫れてる」 「……」  真っ赤だ。悪化はしてなさそうだけど、でも、改善もしてなさそうで、痛々しいほど赤くなってる。 「ちょっと待ってな」 「え?」  店の奥、まず居間があって、その奥に台所がある。その台所には俺がガキの頃からずっとそびえ立ってる大きな食器棚。その右の引き棚に救急箱が締まってあった。すっ転んで膝を血だらけにして帰ってくると、ばーちゃんが目を丸くしてから、溜め息をついて、そこの棚から持ってきてくれるんだ。  あかちん。 「何、それ」 「知らない? あかちん」 「は?」  不思議そうな顔をしてた。何だそれ、って顔。綺麗な顔なのに、しかめっ面をすると妙にその綺麗さが崩れて、急に人間っぽくなる。 「もう作ってないらしいから、薬局とかじゃ売ってないかもね」 「ぇ、使えるの?」 「だーいじょうぶ、使用期限内」 「そういう意味じゃなくて! それ、耳朶なんかに使っていいわけ?」 「…………だーいじょうぶ」  ほら、すごいしかめっ面が、とても人間味溢れる感じだ。 「……やじゃないの?」  ピアスの穴、なんだろうな。痛そうだ。 「んー? 何が?」 「俺、ゲイなんだけど」 「……俺、異性愛者なんだけど、やじゃないの?」  その美少年の言い方をまるきり真似て見せると、少しだけ笑って、ずっとへの字だった口元を朗らかにした。そして「やじゃない、かな」と答えた。  だから、今度は俺も「やじゃない」と答える。  ちょうど、三時頃だった。あの雨の日も三時頃。ランチが終いになるかなっていう時間帯。 「お茶、飲んでく? 日本茶だけど。美味いよ? 産地直送」  それはまるで猫の散歩みたいだった。きっちりとじゃなく、ふわりとほぼ同じ時間に立ち寄る猫の、散歩。

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