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第3話 野良猫さん

「ね、なんかこれ、すごい真っ赤なんだけど」 「あかちんだからね」 「大丈夫かな」 「……どう、でしょう」 「え?」  答えを濁したことに野良猫さんが目を丸くして、背筋をピンと伸ばした。軟膏を塗るつもりだったんだ。ばーちゃんが愛用してた、転んでも、火傷しても、痒くても、痛くても、とりあえずこれを塗っておけば大丈夫っていう、万能薬でさ。  でもこの野良猫が所望したのはあかちんだった。  珍しくて面白かったんだろう。まぁ、俺がガキの頃、膝なんかを擦りむいた時はこれを使ってたから、擦り傷切り傷なんかに効くんだと思う。ピアスの穴は……刺し傷、かな。傷は傷。効かないわけじゃないとは思う。 「おにぎり屋さん、繁盛してるんだ」  ちょっと見ただけなら、赤いピアスに見えなくもない……かな。いや、どうだろう。 「まぁ、おかげさまで」 「美味しいもんね」 「まぁ、おかげさまで」 「イケメンだもんね」 「まぁ、おか……あのね」  肩を竦めて、フーンと顔を背ける。クリーム色の猫のような髪がその拍子にふわりと揺れた。 「写真撮っていいですかぁ? お願いしまぁすぅ、って女に言われてたくらいだもんね。鼻の下伸び、」 「付いてるよ」 「へ?」  揺れて、少しだけ、見てしまった。いや、見えたからさ。キスマーク。けっこう濃い感じの。 「米、ここに」  けれど、そのことは見て見ぬふりをして、頬にくっついていた米粒を指差した。  この子のことは何も知らないけれど、たぶんそう歳はいってないだろう。それなのに、そんなキスマークっていうのはいかがなものかと、思わないわけじゃないけれど。  でも、そんなの言うわけにもいかないでしょ。  派手なキスマークが付いている美少年、そういうととても妖艶な感じなのに、頬に米粒をくっつけたちょっと抜けてる野良猫さんでもある。そして、そんな野良猫さんは慌てて、顔を真っ赤にして、ビタン! と、掌で米粒ごと頬ををひっぱたいた。ちょっと照れくさいのと、勢いをつけすぎたんだろう、痛そうに、バツが悪そうに顔をしかめた。 「美味かった? 卵焼きおにぎり」 「う、ん。あの、今度はちゃんと代金払う。またご馳走になるわけにも」 「いいんだよ。君は実験台」 「実験台?」  そう、それは試作品。俺一人の美味い美味くない、だけじゃ判断しかねるから、もうひとりくらい、しかも歳の離れた子からの意見っていうのがあったらいいなぁって。 「だから、詳細な感想をいただかないと、なわけです」 「……」 「味、どうだった?」 「え、あ、えっと、美味しかった。俺、しょっぱい玉子焼きのほうが好きなんだ。だから、すごい美味しかった。寿司とかにある甘いのは苦手で。でも、甘いのが好きな人はそっちのほうが嬉しいのかな」 「なるほどなるほど。甘いのもあり、かも、しれない」 「あ! あと! 美味いんだけど、少し味がぼやけた感じがした、かな」 「ふむふむ……」 「それと……って、何? なんで笑って」  メモを取りながら、ちょっと口元が緩んでしまった。  だって、この前の雨の日はなんだかずっと毛を立てて、警戒心丸出しって感じがしたから。いや、ご機嫌斜めだったのかな。口はずっとへの字だった。 「な、なんだよ」  今日は少しだけご機嫌がいいらしい。雨じゃないから、なのかな。 「いや、ちゃんと考えてくれて嬉しいなぁって」 「……」 「あと、とても美味しそうに食べてくれるから」 「……はっ! だ、だって、だって考えろっていうからっ」 「うん。ありがとう。参考にする」  野良猫さんがまた顔を赤くした。 「ど、どうぞ」  ぷいっとそっぽを向いて、通りすがりの誰かが見たら不思議に思うだろうあかちん耳朶の指で触れて、色移りしないかと確認した。  綺麗な横顔だと、そう思った。 「…………そろそろ、店じまい?」 「え? あ、あぁ、そうだった」  三時くらい。そうきっちり決めているわけじゃないけれど、このくらいの時間帯で一旦、客足は止まる。 「夜の仕込みもしないと……」 「は? 夜?」 「? そう、夜もやってるよ? ここ」  目を丸くしてた。大体このくらいの時間帯に店を一旦閉めて、夜五時くらいからぼちぼちまた店を開くんだ。 「小料理屋、夜はね」 「へぇ……」 「昔、ガキの頃見てたお笑い番組でさ、小料理屋で色んな、変なメニューを出して客が怒るっていうの好きだった。まさか自分がやるとは思わなかったよ」  夕方、店を閉じてる間にうちの母が迎えに来るから、ばーちゃんが小料理屋をやってるところは見たことがなかった。でも、やってるのは知ってたから、テレビを見ながら、おばあちゃんの格好をしたお笑い芸人を見ては、ばーちゃんもこうして店をやってるのかな、とか想像したっけ。 「ぁ、それ知ってる。大好きだった。毎回さ、サラリーマンがお腹空かせて来るんだけど、一つも食べられなくてさぁ」 「……」 「子どもながらに今度こそ! 食べられるやつ持ってくるかも! って、テレビに齧りついてた」  野良猫さんが楽しげに身振り手振りを加えて、その爆笑シーンのことを話してる。  俺は、ちょっとどころじゃなく、かなりびっくりしたんだ。 「え? 君、歳、いくつ?」 「は? 何、急に……」 「いや、だって、それ見てたってことはさ」  同年代ってこと、なわけで。 「に、二十九、だけど」 「は? 二十九? え?」 「な、何っ!」 「いや、タメ……だったから」  だって驚くだろう? 見た目がすごく若く見えたから。二十歳そこそこなんだろうと思ってたんだ。もう完全に十近く歳の離れた子だと。っていうか「子」て、感じに思ってたから。 「悪かったな。三十路手前で」 「いや、俺も三十路手前だから。タメだから」 「そっか」  野良猫さんは、ぽんと手を叩く。俺が勘違いをしてとても若いと思い込んでいたことに笑って、ありがとうと若く見られたことに礼を言った。 「そっか……小料理屋もやってるんだ」  野良猫さんは二十九歳だった。 「ごめん。そしたら、夜の店の準備があるんだっけ。邪魔してた」 「あー、いや、別に」 「ごちそうさまでした。玉子焼きにぎり美味しかった」  野良猫さんはしょっぱい卵焼きのほうが好きらしい。でも、甘い玉子焼きも大丈夫。 「……それじゃ。あの、長靴と傘、ありがとう」  あと、律儀だ。借りた物はちゃんと返すし、頼まれた味の感想も丁寧に細かく言ってくれる。 「それじゃ……」 「あ、あのさっ! 新生姜って、好き?」 「……は?」 「ちょっと考えてるメニューがあるんだ」 「……」 「もしよかったら、また感想教えてよ」  ひとりじゃ、ほら、意見が偏るからさ。それに君はとても丁寧に味のレポートをしてくれるから。だから――。 「兎野公平(うのこうへい)」 「……え?」 「名前、俺の」  野良猫さんは、二十九歳で、玉子焼きの好みが同じで、それで、兎野公平というらしい。 「新生姜」 「……」 「けっこう、好き」  そして、野良猫さんはまたぷいっとそっぽを向きながら、あかちんを全体に塗ったみたいに耳を赤くしていた。

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