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第5話 秋色耳朶
もう来ないのだろうか。
もう、現れてはくれないのだろうか。
やっぱり野良猫だからかな、なんちゃって、冗談だけれど、でも魚が好きなように感じた。秋ならやっぱり秋刀魚かな。
煮付けとか好きそう。あー、でも、炒めたりとか揚げたりもいいかな。洋食にしてもいいかもしれない。
揚げるなら、マリネとかどうだろう。彼は野菜も好きな気がしたから。
「……うーん」
どれか目ぼしいレシピ本はないだろうかと、店の近くにある駅ビルの中で物色をしていた。魚のレシピ、野菜のレシピ、そんで、酒のつまみになりそうなレシピ。それらを一冊にまとめたような感じの。
彼が飛び上がって喜びそうな。
彼がパクパク笑って食べそうな。
「……」
彼のことをよく考えてるなと、自覚はしている。
――言っとくけど、あの感じ、きっとゲイだぞ? お前、狙われてんじゃねぇの?
残念ながらそれはないと、思うんだ。残念ながらってなんだよ、とも思ったけれど、本当に、別に彼は。
「……!」
クリーム色の、少し緩やかなウエーブをした髪は柔らかくて、まるで本物の猫のようだなぁって。そんな後ろ姿を見つけた気がして慌てて追いかけて、慌てて肩を掴んで。
「兎野さん!」
「え?」
何、してんだ。俺は。
「すみません……人違いです」
似た髪色だからって追いかけたりなんかして。
次に彼が食べたいものはなんだろうと予測して、レシピなんて考えて。
「まったく……何してんだ、俺は」
それはまるで、野良猫の散歩みたいだ。毎日同じ夕方に、ふらりと現れて飯だけ食べて帰っていく。それが数回続いた。こっちがまた明日も来るんだろうって思い始めたら、、もうやめてしまう。気まぐれ野良猫みたい。
他所の人間が、永井がひょこっと顔を出しただけで、餌場を見つかったと慌てて走って飛び出した、警戒心の強い野良猫みたい。
野良猫は懐かないから野良猫なのに。
「……」
決して慣れることはないのに、また来ることを期待してる。
この店、おにぎり屋兼自宅に住んでいたばーちゃんと一緒に暮らすようになったのは俺が高校生の頃。小学生の頃は共働きだった両親が迎えに来るまでの学童代わりにいさせてもらってただけで、高校生の頃、海外へ仕事で転勤になった両親にはついていかず、日本に残ることを選んだ俺はばーちゃんのうちに住ませてもらうこととなった。
そして、ばーちゃんが亡くなったのは俺が二十七の時だった。
高校行って、大学受かって、一流商社に就職して、働き出して五年目。そろそろって時のことだった。
親戚はこの店と家をどうするかで揉めた。何せ、ばーちゃんの息子である俺の両親は基本海外生活。住んでいたのは俺だけ。おにぎり屋を俺が継ぐとは思いもしなかったんだろう。親類は店はもう売ってしまうべきだと考えていた。だから手を挙げたんだ。
――俺、店を継ぎます。
その時の親類たちが見せた、驚きと、思ったとおりにいかないことへの苛立ちの混ざった顔は今でも良く覚えている。
調理関連の仕事をしていたわけでもないのに何を言い出したんだと鼻で笑っていたけれど、俺は仕事を辞めて、職業訓練校で調理師の免許を取得した。
仕事を辞めるのは、そう難しくなかった。
実力主義、ダメな奴はどうぞご自由に辞めてくれ。必要なのは優秀で、有能で、この会社に利益をもたらすものだけ。そしてこの会社にとって有効人材でないのなら、早々に辞めてもらってかまわない。
だから辞めるのはとても簡単な会社。
幸い、大卒で勤めた分の貯金があったから、学生に舞い戻っている間の資金にはこまらなかった。
誰にも迷惑をかけないのだから、誰にもとやかく言われることはない。
昼はおにぎり屋。夜は小料理屋。
「よいしょっ」
そりゃ、疲れるよ。ばーちゃん。早死、っていってもばーちゃんは享年八十オーバーだけど。
しかも二十年近く前は、加えて、ガキんちょだった俺の子守まで。大変だったと思う。
「さてと……」
彼は、あの日以来、来ていない。
もう散歩コースを変えてしまったのかもしれない。三時頃にここをいつも通っていたけれど、永井に遭遇してしまったから、ルートを変えたんだったりして。
そんなばかげたことを考えながら暖簾を出した。これから昼時だから。
「あの……」
それは鈴も何もつけていない自由気ままな野良猫の散歩のように。
「……」
「ま、まだ、店、これから?」
「……」
「あ、えっと、いつも、アレ食べたいコレ食べたいって言うばっかで、無料で食べてて、ちょっとどうなんだって思ってそれでっ、だから今日はっ……って、何? なんで笑ってんの?」
ずっと、君のことを考えていたんだ。
ほら、よくあるだろ? 学生の頃、ある日突然、その日だけ急にさ、なんだかやけに不機嫌そうにしている友だちって。でもその不機嫌の理由が自分の中で思い当たらないとすごく気になったりとか。何かしたっけ? って考えたり。
きっとそんな感じだ。
「いや、別に」
ふらりとやってきて、ふらりと来なくなった君のことをたくさん考えていた。
「ちょ、何?」
「なんでもないよ」
秋刀魚の秋メニューは決ったよ。唐揚げにした秋刀魚を大根、人参、カイワレのサラダとあえて、レモンドレッシングで、っていうやつなんだ。酸味って好きっぽかったから。野菜も好きで、魚のリクエストもけっこうしてきた君なら気に入るかなって思ったんだけど。
「おにぎり、何にしますか?」
残念なことに、夜のメニューだったんだ。まだ準備前。
「あ、えっと、そしたら、シラスと青紫蘇のおにぎりと……あと、玉子焼きにぎり」
いつも君がふらりとやって来るのは三時過ぎの、人の気配がなくなった閉店後だったから。
「はい。少々お待ちください」
「う、ん」
視線を感じた。印象的な大きなアーモンドの形をした綺麗な瞳が真っ直ぐにこっちを見つめてるって。
「はい。お待たせしました。青紫蘇とシラスのおにぎりと、玉子焼きにぎり」
見上げると、君は笑っている。
「やっぱ、早い」
その耳朶はもちろんあかちんなんて消えうせていたけれど、赤く腫れてもいなかったけれど、淡い赤色に染まっていた。
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