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第6話 君のこと
永井のことは昔から永井って呼んでた。小学校の同じクラスに同じ名前の男子がいて、区別するために永井って苗字で呼んでた。あいつは俺を照葉と下の名前で呼んで、俺は永井って苗字で。
同じ歳の男なら「クン」でも「さん」でもなく大概が呼び捨てかな。会社勤めだった時も同期の奴らは苗字だけで呼んでたし。
さて、そこで、ふと困ったことが起きた。
三時ちょうど、君がやってくる時間。
「あれ? 今から出かけるの?」
クリーム色の柔らかい髪をなびかせて、君が首を傾げている。
「……あー、うん、ちょっと買い忘れがあって」
困ったこと、それはつまり同じ歳だとは思いもしなかった「美少年」にしか見えない二十九歳男性の呼び方だ。
「何? 俺、買ってきてあげるよ。だーいじょうぶ。お金持ってトンズラしないから」
「っぷ、トンズラって」
「え、今、死語? トンズラ」
「さぁ、わからないけど、若い子は言わないんじゃない?」
そう、俺と同じ歳。
「そっか……」
けれど、どう見ても成人式を迎えたばかりにしか見えない。いや、どうだろ、高校生でも通用するかもしれない。学生服を着て学割で映画を観ようと思えばできそうな。
「そんで? 何を買うの? マジで行ってきてあげる」
「あー、いや、無理だから、いいよ」
「なんでよ」
君には重くて持てないよ。兎野クン? 兎野さん? 兎野? 公平さん? 公平クン? 公平? どう呼んだらいいのかわからないんだ。君のこと。
だから、名前を呼ばないようにしながらいつも話してる。
「かなり重いから。酒類」
年下とばかり思っていたから、どうしてもクン付けが馴染むんだけれど、同じ歳にクンって微妙だろう? かといって……サン、っていうのもなんだか妙に馴染まない。もちろん呼び捨てできるほどに近しい間柄でもない。
さて、どう君のことを呼べばいいのだろうか。
「じゃあ、ちょっとだけ持つ!」
「……いいのに」
「手伝いたいんだって!」
「その細腕で?」
「は? 細くても男だから」
そう、男だけれど美少年だから、なんとも接し方がさ。同じ歳で美少年なんて身近にいなかったもので困るんだ。
「今日は? 繁盛してた?」
「おかげさまで」
月曜が定休日なのも知っている。だからその月曜以外は毎日こうしてやってくるようになった。
仕事は何をしてるか知らないんだ。平日の三時に毎日顔を出せるのだから、夜の仕事か朝が早い仕事か。でも訊いたことはない。
一度だけ、彼があくびをした時、「眠い?」と尋ねたことがある。彼は「んーん」と首を横に振って、少しイヤそうな顔をしてから「全然」と小さい声で答えたから。何か、イヤなことがあったのかもしれないと直感的に思ったんだ。
どの辺に住んでるのか、とかも少し身辺調査じみていてイヤだったし。だから、本当に野良猫の散歩と同じように、その時に窓を開けて、入ってきやすいように。後は待つだけ。余計なことはせずに。ただ待つだけ。
そうしないと逃げてしまいそうだから。
「ちょっと寒くなってきたねぇ」
「……そうだね」
逃げられてしまったら、イヤだから。
「さむっ……」
そう、君に逃げられたら、もう来なくなってしまったら寂しいんだ。寒い冬になっても君は散歩に来てくれるのだろうかと、毎日毎晩寒さが増していく度に考える。
「あ、そだ、本格的冬になったら、おでんとかは?」
君は真冬になっても来てくれるのかと考えている。
「いいね、それ」
「でしょ! 俺、ちくわぶ、絶対! あと餅巾着に、こんにゃくも」
「王道があんまない」
おでんの、少しマイナーな気がする具材を言い並べる君に、冬もうちの店は散歩の通り道になるのかなって、期待してる。
「じゃあぁ、タコ!」
「だから、王道じゃないでしょ」
「えー?」
三時頃に来てた。
「いらっしゃい」
「あー、生一つ、あと、蛸わさ」
「はい」
でも、今日は三時をすぎても、四時になっても、五時になっても来なくて、彼のために取っておいた、椎茸の佃煮にぎりの試作が一つ余ってしまった。
「はぁ、冷えてきたぁ」
「……そうですね」
「昨日はそうでもなかったのに、今夜はぐんと冷えそうだ」
「……えぇ」
お客さんが生ビールを半分煽るように飲んだ。
もう六時半。
「んー、そしたら、ネギのみそ焼き一つ」
「はい」
たしかに今日は少し寒さがきつくて、間違えて薄着をしてしまった人は寒くて仕方がないだろうなって思う。
「……」
そういえば、彼はいつも薄着だっけ。
「……猫」
「猫? 何? 店長さん、猫好きなの?」
思わず、ぽつりと零れた独り言に、話をするのが大好きな人なんだろう、お客さんが猫はいいと顔をほころばせた。寒くなってくると途端に甘えたがりになるんだって、笑顔になったから家に猫でもいるのかもしれない。
「いいよねぇ、猫」
猫、好き、なのかと……お客さんに聞かれて、俺は――。
「ごちそうさまでしたー」
「ありがとうございました」
最後のお客さんが帰ったのを見届けて、時計を見れば十時を随分すぎていた。狭い店だし、宴会向きじゃない。ふらりと立ち寄って、少し飲んで、疲れと空腹を少しだけ和らげてから家に帰るような、そんな小料理屋。ばーちゃんがやっていた頃からの常連さんなんかは、ばーちゃんの思い出話をして、ビール一杯程度で帰っていく。
だから、十時になったらもう店じまい。
閉店。
けれど、彼は来なくて。
だから、しばらく開けていた。もう閉める準備を始めていた十時を過ぎてもまだ明かりがついていたから、よく来てくれるお客さんは驚いてた。
それでも、彼は来なくて。
さすがに店を閉めないとって思ったんだ。
「……」
店の前の歩道、いつもはそんなに気にしないのに、今日は彼が来てないから、ふと気になって周りを見て。
「……ぁ」
見つけたんだ。君を。
「!」
向こうは俺を見てたから、目が合って、目が合ったことに慌てた様子で腰掛けていたガードレールから飛び下りた。
飛び降りた君は――。
「どうした、んだっ、それっ」
薄暗く、手前の飲み屋の僅かな明かりでもわかるくらい、頬を真っ赤にしてた。
「待ってっ!」
俺が大きな声を出したから、君はまた飛び上がって今度は逃げてしまおうとする。本物の野良猫のように、急いでその場を離れようとするから、俺も急いで捕まえた。細くて、折れてしまいそうなほど華奢な手首を捕まえると、頬だけは見られないようにと一生懸命に俯いている。
でも、見えてるよ。
なんだよ。その痛々しい頬は。
「!」
今度君が飛び上がったのは俺にじゃなくて、その手にあったスマホだ。手で持っていたスマホに着信があったみたいで、飛び上がって、まるで、虫でもその手に止まったみたいに慌てて手を振った。その拍子に歩道に転がった。
乾いた音を立てて転がって、ブブブと鈍い音を立てるから。まるで本物の虫の羽音のよう。
「ごめん。電話、俺、代わりに出てもいい?」
「ぇ? な、なんでっ」
なんで? さぁ、なんでだろう。
「出るよ」
「……」
「……もしもし?」
このスマホの着信を知らせる振動音に君が怖がったから、かな。
『おい! てめぇ、どこほっつき歩いてんだ! おいっ!』
怖がる君を守りたかったから、だ。
「もしもし? 公平なら、帰らないよ」
『は? 誰だ、てめぇ、おいっ! なっ、』
電話はそこで切った。
「な……んで」
なんで? さぁ、きっと、それは君のことが好き、だからじゃないかな。
「頬」
「!」
「あかちん、塗る?」
「……」
「うちにあるよ?」
君のことが好きだから、じゃないかな。
「……なにそれ」
俺は、ずっと君をなんと呼ぼうか迷ってたんだ。同じ歳の同性だけれど、なんだか、綺麗な君のことをなんと呼んだらいいのかもてあましてたんだ。
「とりあえず、今日、うちにおいでよ」
「……」
「試作のおにぎり、食べてもらいたいんだ、公平」
君のことを、なんと呼んだらいいのかって――。
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