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第9話 ホントにホントの、本当に
「……うわぁ」
朝、起きて洗面所の鏡の前に立ち、自分の額にそんな声が零れた。こりゃ、すごいな。触るときっと痛いだろうと、恐る恐る、少し伸びかけの前髪をかき分け、もう一度その額を観察する。
昨日、思いきり、ここの柱にぶつけたんだ。
好きな子の恋愛対象外だとわかったショックでさ。ゴーン、と勢いよく激突した。その柱のほうの心配もしたくなるほど額にはぷくりと膨れた赤いたんこぶがくっついている。
「……はぁ」
「……あの、大丈夫?」
「うわぁぁ! イタッ! イタタタ」
「わっ、ぁ、ごめんっ」
振り返った拍子に仰け反って、今度は後ろの壁に後頭部を打ちつけた。作りがさ、こじんまりしてるっていうか、古いから。
「ごめん、照葉さんっ大丈夫? 後ろのとこ」
「っ」
また鐘のごとく大きな音を立てて激突したものだから、たんこぶができてしまっているかもと、君が手を差し伸べた。
「おでこも、まだ」
「……君こそ、頬、大丈夫?」
赤みは少し落ち着いたけれど。今度はその分、紫色が混じりだして、昨日よりも痛々しさは増してしまっている。触れて、ちょっとでも指で突付けば飛び上がってしまいそうなほど痛々しい頬をしてた。
「大丈夫だよ。こういうの……初めてじゃない、から」
なんて痛々しいんだ。そんなことを笑いながら言うことは、たまらなく悲しいことなんだよ。
なのに、君は不安なように袖を引っ張って、服で隠した。
顔だけじゃなくて、と身体にも同じように痣があることを、苦笑いを零しながら教えてくれる。
それって、つまりは暴力をたくさん受けていたってことなんだ。
「照葉、さん?」
「……」
掌からその痛いを吸い取れないだろうかと思いながら、そっとその痣に触れた。
「……眠れた?」
「あ、うん! すごくっ」
「そっか。よかった」
「布団で寝るの、安心した」
「そ?」
大きく頷いて、ニコリと笑う君が真っ直ぐに俺を見つめてる。
なぜなんだろう。
ただ君と目が合っただけで、それを逸らすことなく笑ってくれただけで、こんなに嬉しいなんて。
「照葉さん……」
「?」
「ありがと」
たまらないなぁって思っちゃうんだ。
君が俺のTシャツの裾をちょこんと引っ張って、照れくさいのか俯いて顔を隠しながら、でも真っ赤に染まった耳は丸見えのまま、ぽつりと話すとこがさ、たまらないなぁって。
「どういたしまして」
「俺、一晩、考えたんだ」
「うん」
まさか、一晩冷静に考えてみて、名前程度しか知らない男のうちで暮らすなんて恐ろしいと思ったとか? 怪しいぞって、思われた?
そんなことないから、安全……と言っていいのか、君を好きだから、大事にするから。いや、俺に大事にされても、イヤかもしれないけど。
「俺、ここで働けない?」
「…………へ?」
「って、ごめん! 俺、まだ顔も洗ってないや」
そういって慌てて顔を洗ってる。根元が黒くなったクリーム色の髪が屈んだ拍子に前に下がってきて邪魔そう耳にかけ、そしてバシャバシャとするから。ほら、痛かった。小さく声をあげて、痣になってる頬に走る痛みに顔をしかめた。
それでも、君はまた急いで、タオルで顔を拭いて、パッと目を見開く。目が覚めたって、すっきりした顔をしてる。
「あの、もちろん、今は、ほらこの顔面じゃさ、お客さんが逃げちゃうからダメだけど。治ったら。それでバイト代が家賃代わりっていうか。ずっと接客はしてたから! ぁ、変な店とかじゃなくて、前にバーとか居酒屋とか。ホント! 変な店とかじゃないからっ」
「……っぷ、そんなの思ってないから、大丈夫だよ」
慌てて否定するところを可愛いなぁ、なんて。
「ホントに? 思ってない?」
「思ってない。思ってない。ホント」
「本当に?」
「本当に」
それならいいんだけどって、小さく呟いた。
「そしたら、頬、治ったら、お願いしようかな」
「ホント?」
「本当。三食まかない付き、衣食住完備、けど、無理はしないでいいよ」
君は細いから。
「無理なんてちっともしてない! ありがとう!」
お礼を言うのはこっちなのに。君は朝日みたいにキラキラに笑ってる。
「こちらこそ」
眩しいくらいの笑顔を見せてくれたから、とりあえず、いいかなって。
「さて、朝飯、何にしようか。公平は何食べたい?」
「おにぎり」
「えー、おにぎり?」
「だって、照葉さんの作るおにぎり美味しいじゃん」
それは嬉しいけれど。
「比べたら失礼なのかもしれないけど、コンビニのと全然違う」
「……」
寝室は二階にある。ばーちゃんが使ってた部屋が今の俺の部屋で、それ以外に多分うちの親が子どもの頃使っていたんだろう、空き部屋が二つあって、そこの一つが公平の新しい部屋だ。俺の隣の部屋。
洗面所は二階にもあるけれど。風呂は一階にだけ。トイレは一階二階両方に。
階段は少し急なんだ。小さい頃はこの階段が少しだけ怖かった。毎年大掃除にかけるワックス。それが塗りたてだと滑りやすくてさ。古いうちだから廊下も階段もきんきんに冷えてて早く部屋に行きたいのに、急ぐと落っこちそうで。
「失礼どころか、光栄だよ」
「ホント? けど、本当に美味しいよ。めちゃくちゃ好き」
今、その階段を俺が前、君が続くように下りていく。話しながらだと、君の柔らかい声が頭上から聞こえてきてなんだか少しくすぐったく感じた。それと、少しドキドキしてるのに、君が急に頭を撫でるもんだから、ドキドキが一気に増した。
「! な、何?」
「わ、ごめん。寝癖があったから、つい」
好きな子だし。
その子がいきなり後ろから髪に触ったら、ドキドキするでしょ。
「なんか、照葉さんでも寝癖つくんだなぁって思って」
「そりゃ」
ただの男ですから。
「俺も寝癖ついてないかな。すっごいぐっすり寝ちゃったから」
「あー、うん、ぐっすり眠れたみたいだね」
「え! 嘘、ついてる? どこ?」
神妙な顔をして、大袈裟なくらいに頷いて、君が慌てて真っ赤になるのを堪能する。
「ついてないよ。普通に可愛いよ」
「っ、そ、そんなわけないじゃんっ! っていうか、寝癖ないんじゃん!」
君が膨れっ面をしたから。
昨日、あんなに震えて怖い思いをした君が今朝はキラキラと朝日みたいに笑ってるから。今はさ、これで充分だと思った。
今現在、恋愛対象外だとしても、大事にしたいと思っている好きな子が楽しそうにしているから、それでいいって。
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