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第10話 優しい座布団
ずっと散歩の通り道としては挨拶してくれていたけれど、中々、中へは入って来てくれなかった。
そんな子が、ある日、気が向いたのか、すり抜けるようにうちの中へあがって、座布団にコテンって寝転がってくれたら、とても嬉しいと思う。
とりあえず、小さなガッツポーズはするくらいに嬉しい。
「そうだなぁ。ここは王道のツナとか?」
今の心境はまさにそんな感じかな。油断すると頬が勝手に緩んでしまいそうな、そんな感じ。
「いつも試作品ばかりだし……」
たまには売れ筋おにぎりもいいかもしれない。
今頃、君は何をしてるんだろう。それこそ座布団の上でコテンと寝転がっているかもしれない。
作ったのは、いくらと鮭のおにぎり、それから魚が好きな君が喜びそうな秋刀魚の生姜ご飯にぎり。こっちはこの時期限定のなんだ。
「……」
そのおにぎりと付け合せのお新香に味噌汁をお盆に乗せて、自宅のほうに行ったら、君が真っ赤な顔をして廊下に立っていた。
服も何も持ってないから、俺のを着ていて、サイズが合ってないという、男子の心を鷲掴みにする格好で、袖をぎゅっと握って困った顔をしてた。
「ど、かした?」
「……ぁ……えっと」
「なんか、あった?」
スマホは怖いから電源を落としたままにしてると言っていた。だから何かあったら、すぐの、この扉を開けて俺を呼んでくれって。
何かあった?
それとも頬が急に痛い?
怖いことがあった?
「な、なんにもないっていうか……その、穏やかな場所で、なんか、俺、場違いじゃない? って」
袖をぎゅっと握って、ダボついた服のせいか肩の細さがとても際立っていた。
「思えて……」
その細い肩を竦めてる。
「びっくりした」
「え?」
「どこか痛いのかと思った」
「え? ぁ、どこも、ちっともっ」
「……うん」
猫と人は違うんだけれど、君に猫みたいと言ったら怒るかもしれないけれど、でも、やっぱり君は猫みたいだ。
家猫じゃなくて、野良の、しなやかでスレンダーなクリーム色の毛並みが自慢の綺麗な野良猫。
だって、そんなふうに困られたらさ、まるで本当に座布団の寝心地に戸惑う猫に見えてくる。
「公平のうちなんだから」
「……」
「好きにしててよ。これ、おにぎり」
「わっ! なんか、すごくない?」
そりゃ、まぁ、大人気のおにぎりにちょっとだけ、好きな子への特別サービスしてるからね。具、割り増しで乗っけてるし、中にも入れてますから。
「一緒に食べよう? 俺のは大根の葉っぱとじゃこのおにぎり、それと、ツナ」
「え?」
これもけっこう美味しいんだよ。大根の葉は細かくみじん切りにして醤油と砂糖で煮る。煮汁がなくなる直前、じゃこも入れて、カラカラになりかけたらごま油を少々。ツナは、ね。普通に王道で美味いから。
「味見する?」
「いいの?」
欲目ってやつだ。
「もちろん」
君の好きそうなものばかりを用意してみたんだって、こっそり胸の内で君に打ち明けた。
「照葉さんのおばあさん、優しそうな人だね」
「あー、そうかもね。穏やかな人だったよ」
昼間はおにぎり屋、夜は小料理屋、週一休みでさ。風邪を引いたところを見たことがないくらい丈夫な人だった。小柄な人だったんだけど、考えたら、醤油の一斗缶とかを自分で運んだり、すごいよね。
いつもニコニコしてたっけ。でも、少しだけストイックなところもあったと記憶している。
――もう、いいんだ。
そういう諦めの言葉を言うと、寂しそうにしてた。
「おにぎり、美味しい……」
「ありがと」
「……なんか、変なの」
「?」
いつもよりも小さな一口。
「自分がこんなとこにいるのがなんかすごい変」
「……」
「こんなに優しいとこに俺なんかが」
「なんかじゃないよ」
早く良くなりますように。
早く痛くなくなりますように。
早く怖くなくなりますように。
そんな願いを込めて、小さな口しか開けられない内側か傷だらけだろう口元にそっとやんわりと折り畳んだ指で触れた。あまり触ったら痛いかもしれないから、包むように触れるのではなく、曲げた指の角でそっと、そーっと撫でるだけ。
「早く、慣れて」
これは願いじゃなくて、頼み事。
「ここは公平のうち、なんだから」
だから、そんなどうしたものかと一日立ってたりなんて、疲れてしまう。まさに借りてきた猫だった。
「で、でもさ、おばあさんとかさ、こんなどこの馬の骨ともわからない男に住まわれたらっ」
「んー……」
「困る、だろ」
それはない、かな。ばーちゃんは猫大好きでさ。けど店がね、あるから。動物は飼えないって残念そうにしてたくらい。だから、美猫が我が家に来たら、それはそれは溺愛すると思うんだ。なんちゃって。
「喜ぶと思う。あの人は賑やかなの好きだったし。それとさ」
「……」
「公平は優しい人だと思うから、ここ、似合ってるよ」
穏やかなところがとくに。
「それよりさ」
「?」
「このおにぎり食べたら、ちょっと買い物行かない?」
「あ、うん。何、買うの?」
とても大事なものなんだ。これは俺にとっても非常に重要なもので、夜までは揃えておきたいと思ってる。
「ねぇ、これ、買いすぎじゃない? っていうか、服なんていいよ。照葉さんの貸してくれたら」
「買いすぎじゃないよ。全然、まったく」
「無駄遣いだよ。しかも俺のなのに、俺が一円も出してないって変じゃん」
変なものか。これは君にとって必要なもの、ではなく俺にとっても必要なものなのだから。
「いいんだ。別に。っていうか全部量販店のだし」
「量販店とか気にしない」
俺が困るんだ。
君がずっと俺の服を着てるのは色々困るから、だからこちらに都合であれこれ買ってきただけ。好きな子が自分の服着て、萌え袖なんてしてたらさ。
「ありがと。大事に、します」
ふわりと微笑んで、ほわりと頬を赤らめて、君がそんなことを呟いて、俺はもうすでに。今もう困っていた。
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