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第12話 黒髪の君は

 頬の傷はほとんど見えなくなった。そして、君は髪色を黒くした。  ――ど、どう?  昼の営業を終えて自宅へ戻ると、君がツンとした匂いがわずかにする黒く柔らかい髪を見せるように頭を傾げた。  そろそろ、お店の手伝いできそうだし、と、痣色がほんの少しもわからなくなった頬をピンク色に染めて。  でも! 違うから! その! 見てみたいって言ってた、から!  なんて、照れくさそうに急いで黒髪の理由を教えてくれた。  ――どう? あ、あんま、かな。  どうって、言われてもさ。そんなの、どうも何もないよ。とても似合ってるよ。すごく、似合ってる。似合ってて、ほんの少し、心臓鷲掴みにされるくらいに、いやちょっと心臓が一瞬だけ止まったかもしれないくらい、また君を好きになったよ。  黒髪はとても妖艶で、まだ乾かしたばかりなんだろう、少し湿気て柔らかさが増しているから、触れてみたくてたまらなかったんだ。  もちろん、片想いの俺はそういうふうには触れられないけれど。  でも、猫を撫でてるみたいに他愛のない感じでなら、触っても大丈夫かな。猫でも撫でるのと勘違いしてるだろ? と、膨れっ面で言われる程度かもしれないな。軽くなら触ってもいいかな。いや、ダメだろ。でもちょっとだけ――そんなひとりよがりなせめぎ合いを心のうちで続けたくらいに、君の魅力が増し増しで。 「なぁ……照葉」  そして、そんなせめぎ合いは、実は、今も継続してたりして。 「なぁなぁ、照葉」 「…………なんだよ」 「その表情したいのこっちだぞ?」  永井がちらりと昼の営業を締めた後の掃除をしている黒髪の君へ視線を投げた。 「永井……」 「うわ、何その、邪魔者扱いな眼差し」 「実際邪魔だろ。閉店してる」  俺の指摘は笑顔で無視して、もう食べ終わったくせにお茶をちびちび飲んでいた。 「あの子……居座られちゃった?」 「そういう言い方するなら、茶、下げるぞ」 「ちょ、そんな怖い顔すんなよー」  言われて、更に顔をしかめたら、今にも塩をまいて追い出されるんじゃないと永井が命綱でも掴むように湯飲みを両手でしっかり握った。 「住み込みでバイトしてる」 「居座れたんじゃん、わー! わかったわかった」 「それとあの子じゃない、俺らと同じ歳だ」 「え? マジで? あの見てくれで? って、わかったっつうの。睨むなよ」  湯飲みを奪おうとすると、それを阻止するように自分の懐へと仕舞いこんだりして。なんだか犬っぽい。玩具を奪われまいと必死に咥える犬に似てる。 「でも、まぁ、お前一人でここやりくりするのは大変だろって思ってたから、ちょうどいいのかもな。っていうか人手増えて多少なりとも楽になったんじゃねぇ?」 「……」 「お前、前の職場だって、」 「永井、これ食べたら帰れよ。夜の仕込みがあるんだ」  永井の言葉を遮って帰りを急かすと、ちらりと時計を見て肩を竦める。本当にそろそろ、仕込みがあるんだよ。公平が手伝ってくれる分、楽にはなったけれど。 「って、なんでミートボールなんだよ。俺、お子様用の弁当にワーイってか?」 「美味いだろ。ミートボール」 「や、たしかに美味いけどさぁ」 「多少どころじゃない」 「え?」  人手、という単語はあまり使いたくないけれど、でも、とても助かってるんだ。だから居座ってるとかそういうことじゃない。俺はとても感謝してる。そう永井に伝えた。  唯一……そうだな、唯一、あれなのは。  公平が接客をやるようになったから、客足が伸びた。綺麗だから、男女共に人気があるというか、なんというか。  それだけ。  好きな子が人気あるっていうのは、なかなかにジレンマがすごくて。 「まぁ、いいけど……でもさぁ、照葉、あんま、あれだぞ」 「なんだよ」 「ちげーからな」 「?」  たしかに美人なんじゃん? 気もきく感じだし、一生懸命働いてて? 好感持てると思うよ? そう言って、永井が視線をほんの少しだけ公平のほうへと傾ける。 「けど、お前は男で、あの子も男」 「俺はっ」 「いーから! 聞けって」  付いてるもんは同じ。付いてないものも同じ。たしかに恋愛感情が性別を超えることはあると思う。けれどもそれは一時だと、永井は溜め息をついた。 「どっかで戻りたくなるよ」  俺はならない。 「付いてるものが同じだからこそっていうテンションに、一時なったって、ねぇもんはねぇんだよ。やっぱ、ない、ってなるんだ。子どももできない。結婚もできない。……女じゃ、ない、ってさ。恋愛感情は性別を超えるけど、恋愛感情には寿命があるんだよ」  俺は――。 「だから、軽く考えろよ。悪いことは言わない。あんま深入りすんな。そんで、深入りさせんな」  深い傷は治りも遅いし、痛くてしんどいからと、永井が呟いた。いつもの笑ってあっけらかんとした口調でしか話さないこいつの落ち着いた声色は、たしかに重いけれど。 「そういうのじゃないんだ」 「……」 「俺の一方的なやつだから」  俺はそうだろう。けれど、公平はそうじゃないから、俺にそういう感情はないから、痛くならないだろうし、深い傷を負うこともない。だからいいんだ。 「…………あっそ……」  俺が好きなだけだから。 「……ごっそさん」 「あぁ……」 「そんじゃ、またな」 「あぁ」  君がどこも痛くないのなら、それでいい。 「…………今の人、照葉さんのこと大事なんだよ」 「公平」  テーブルを拭いていた手を止めて、黒髪の君が、その拭いたばかりのテーブルを見つめながら呟く。 「俺みたいなの、誰だって、近寄らせたくないよ。大事な人に」 「公平!」 「ろくでもないもん」 「俺はっ」 「けど」  クリーム色は柔らかい印象だった。触れたらふわりとしてそうな感じがした。 「照葉さんが、俺を面倒な奴って思わないでいてくれた」 「……」 「嘘をつかない人だって知ってる、から」  黒髪の君は凛としている。 「他の誰かにとって、自分にとって、自分がすごくろくでもない奴だったとしても」 「……」 「照葉さんが笑いかけてくれる自分を信じてる」  黒髪の君は強くしなやかで。 「な、なんちゃって……あー、えっと、次はっと……そ、そうだ! ゴミ出ししたかったんだ! 裏でビール瓶洗ってきます」  なんて綺麗なんだろうと見惚れてしまうほどだった。

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