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第16話 ぺちゃんこ人間

 知っている声。知っている、甘い、香り。 「照葉……」  まさかの、ってやつだ。 「……知美(ともみ)」  まさか、こんな場所で会うなんて。  彼女は俺を見つけて目を丸くして、長くカールした睫毛を数回瞬かせて、淡い色が上品な唇を開いた。以前は伸ばしてたけど、少し邪魔そうにしてたっけ。雨の日が憂鬱だと言ってた。その髪をばっさりと肩のところまで切っていた。 「久しぶり。あの、元気に、してた?」 「……あぁ」  彼女とは、三年付き合っていた。 「あ……お店」 「ごめん。用事があるんだ」  同じ職場で同期の中でも美人で、そして、彼女はとても優秀だった。 「あ、あのっ、照葉っ!」 「おーい、ともぉ、福嶋ともぉ! 一人で歩いてると、またナンパされるぞー」  すごいな。まさかの展開がこうも転がっていくかな。 「って……あれ? あれ、もしかして」  俺のイヤな方向へ。 「やっぱそうだー! 同期だった樋口照葉じゃん! 樋口―!」 「え? マジで? 樋口、脱サラして店やってるってこの辺なん?」 「んもー、店の名前教えろよー。俺らも宣言くらい協力するって」  あぁ、本当にイヤな展開だ。 「なんつう店?」  ネクタイは全部捨てたのに。 「あ、俺、今、エリアリーダーやってんだ。だから、部下連れてさぁ」  なんで、こんなに息が苦しいんだろう。 「行ってやるから」  息が――。 「行こ。照葉さん。映画の時間始まっちゃう」 「え?」 「それじゃ、失礼しまーす」 「え? ちょっ、公平?」  細い手がぎゅっと俺を掴んで、引っ張ってくれた。さっきまでふわりと踊るような足取りだったのに、まるで地面を踏んづけて山でも登ってるみたいにしっかりと。さっきまで寒そうに竦めていた細い肩でこれでもかってくらいに風を切って。しなやかな髪をたてがみみたいに風になびかせて。  そして、飛んでいってしまいそうな羽のような細腕で、俺をどんな強風でも飛ばされることはないほどしっかり捕まえて。 「公平っ?」 「……」 「こうっ、」  そんな君がぴたりと止まるから、勢い余って激突するかと思った。 「なんとなく、相手のこと、好きになれなかったから、俺が、だから、悪い態度しちゃった」 「……」 「なんか、好きじゃなくて」  激突したら吹き飛んでしまいそうな気がする華奢な君に、助けてもらってしまった。 「……ごめん。ありがと」 「!」 「実は、俺もさ」  息詰まるかと思ったのに。君が駆け出して、引っ張りまわされた俺は今、深呼吸しまくりだ。 「好きじゃないから助かった」  ほら、息できる。 「情けないけど、助かった」  ほら、溜め息だってつけてしまう。  そう、ずっしり重くてしんどい溜め息を。 「だから、ありがと……」  そして、手を引っ張ってくれた君の手がとても温かくて、心底ホッと息をつけた。 「……公平も飲む? 酔い覚めちゃっただろ。って、もう夜遅いけど」  うちに辿り着くと庭先で虫たちが鳴いていた。駅前だけど、この辺は古びた通りだから繁華街のような騒がしさからは遠くて、夜もこの時間になれば静かなものなんだ。  寝る時はもう締めないと完全に風邪を引く。けど、少しだけ、穏やかな虫の音を聞きたくて居間の窓を開けていた。  公平は何も言わず、自室にはあがらず、居間に座ってた。 「でも、飲み直し付き合ってくれたら、ちょっと嬉しい、かも」  だから、少しだけ時間をくれないかなって思った。別に君にとって俺はただの同居人だろうけれど、さっき、あそこから連れ出してくれたついでに、もう少しだけ自白に付き合ってもらえないだろうかと。 「明日の朝の準備はさぼってもいいから、一杯、付き合ってよ」  缶ビールだけどさ。そう言って、公平の向かいに座って、一つだけ缶を開けると、それを奪われてしまった。声をあげる間もなく、ぐびぐびーって飲み干されて、缶一つからっぽ。そして、君は少し不貞腐れた顔で「いっぱい飲む」って、一杯と、いっぱい、オヤジみたいな駄洒落を言った。  たいして面白くないけれど、笑うと、君も笑ってた。  ふわりとアルコールがほんの少し沁み込んだような、なんともいえない、ゆっくりした空気に気持ちもほどけていく。 「さっきのは……元同僚」  全員同期。全員二十九歳。でも、全員、俺より優秀。 「超大手商社の営業」 「……」 「皆、すごいやり手の営業マン。超花形」  毎日毎日数字との格闘。それこそ絵に描いたようなエリート商社の花形営業サラリーマン。ドラマでは使い古されたような設定だ。良い大学に行って、良い会社に就職してっていうさ。 「俺は、あいつらにしてみたら、ぺちゃんこ人間なんだろうなぁ」 「ぺちゃんこ?」  そう、潰されて、一ミリにも満たないペラペラ人間。でも、そう思われることを跳ね除けられなかった。 「俺、小説家になりたくてさ」 「え?」 「意外?」  コクンと頷く公平に笑って、まだ手をつけてない缶ビールを開けた。プシュッと中の空気が飛び出た音が静かな居間でやたらと際立っていた。 「中学ン時だけどね……まぁ、あれと一緒、子どもが夢見る、ふわふわした将来の夢」  こっそり書き溜めては、いつか文豪になった自分を夢見てたっけ。 「高校の時にはもう忘れてた」 「……」 「なりたいもの、他にも色々あったんだ。教師とか、通訳とか、なんか海外での仕事とかもいいなぁとか」  いいなぁと思ったものはたくさんあったけれど、あっただけだった。 「そんで大学入って、彼女作って酒飲むようになって、レポートに追われたり、追われなかったり。それが終わったら就職。できるだけ良いところにいけば、給料高いだろうって考えて就職先を選んだんだ」  びっくりするほど、こうして口に出すと、なんて小さいんだろうと笑えた。 「その就職先が、さっき言った商社」 「……」 「けど、いつからか、退屈だと、思ってしまった」  それまで頑張ってたんだ。自分も参加するプロジェクトが成功までもう一歩ってところだった。でもその時、別のプロジェクトに関わっていた同期が一人、ぽつんと来なくなった。潰れたんだろって言われていた。仕事に押し潰されて、ぺちゃんこになってしまったんだよと。  プロジェクトの中心人物だったんだ。優秀だと皆に評価されていた――と思ってた。  その同期が来なくなった翌日は大事なプレゼンの日だった。「こんな日に休まれたら困るのに」そういう文句が出ると思ってたんだ。  でも文句は一つも出てこなかった。普通に他の同期がそのプレゼンを成功させて、また一つ数字がプラスになったと喜んでいた。  そこに生まれた小さな違和感。数字に一喜一憂する同期、あっさりと誰かが代わりをこなせてしまった仕事。  必要な人材かもしれないけれど、必要不可欠なわけじゃないって事実を突きつけられたこと。  そんなことに戸惑ってるうちにやらかしたんだ。 「大きな損害を与えるような凡ミスをした。もうそうなったら、居場所なんてない。落第だ」 「……」 「カッコわるってさ」  そう思ったんだ。他に優秀な奴なんて山ほどいる。しがみ付いて、必死になったって、もっと優秀な同期がいともたやすく挽回してく。俺は「できない人間」で他の同期は「できる人間」そんな烙印を押されたくなくて。 「逃げたんだ。カッコ悪いって逃げた」  しがみ付けなかった。  やめてしまった。諦めてしまった。しがみ付こうと思えなかった。  自分がいなくても、代わりはいる。いくらでも。会社っていう場所を動かす歯車ひとつが欠けてもそれはたいしたことじゃない。不可欠ではない。  だから、引いて、離れたんだ。仕事が取れたことに一喜一憂する同期。どれだけ美人の女性をモノにできたかと見比べ合うのも、数字の上下に躍起になるのも、カッコ悪いじゃんってさ。  そう言って見下す真似をした。 「でもっ、普通、俺からしてみたら、あっちの人たちのほうがやだ。照葉さんのほうがずっと」 「優秀なんだよ。すごく頭も良いし、仕事できるし」 「でも、俺はっ」 「あっちにしてみたら、俺は負けたぺちゃんこ人間だ」  だから、彼女のことも諦めた。やめたんだ。  結婚を考えていたけれど、断られるのが怖かった。優秀じゃないぺちゃんこ人間となんてって言われるのが怖かったから、最初から、もうやめてしまった。  かっこ悪い男だとバカにされたくなかった。 「カッコ悪い……って、ごめんね。遅くまでつき合せて」 「……」 「明日、ゆっくりしてていいよ。これも片付けとく」  でも、今は違う。 「おやすみ……」  今はさ、少しでも膨らむことはできないだろうかと足掻いてみたりもする、君のことが好きなぺちゃんこ人間なんだ。

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