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第30話 あなっぽこ
きっとあまり優しくされたことがないんだろう、とは思ってたけど。でも――。
「……ありえなくないか?」
遅い朝、いや、もう昼近く、バリバリと音を立て、髭を剃りながら、その音に紛れ込ますようにそんな文句を呟いた。
だって、呟きたくもなるだろ。
普通に考えてありえないだろ。
あんなに可愛いのに。なんで、それをぞんざいにできるかな。理解できない。昨日の、あのピアスのだってそうだろ。普通に考えて、したくない相手にそんなことするか? 普通、しないだろうが。あの時、耳朶、真っ赤だったぞ? 真っ赤に腫れて、痛々しかった。そんな有様に恋人のことをするかね。普通。
信じられない。
「……」
でも、その信じられないところに公平はいた。
「照葉さーん」
「!」
「しょうよ、ぁ、ごめんなさい。髭剃ってるとこだった」
「いや、もう平気、っていうか、何してんの?」
「んー? 片付け? 昨日、閉店の後、その、あれだったから、片付けあんましてないでしょ?」
考え込んでいたら、店のほうから君が顔を出した。今日は定休日。もしそうじゃなかったらこんな時間までゆっくりしてられない。そう、だから君もゆっくりでいいのに、というより君はゆっくりじゃないと、腰とか色々しんどそうだから、動かないでいいのに。
「ね、あのさ、この傘、お店の?」
「……いや、多分、違うかな」
ただのビニール傘。店用で二本ほど似たようなビニール傘は持ってるけれど、一応、店の名前を傘の柄にシールで貼ってある。でもそのシールがなさそうだから違うと思う。
「じゃあ、忘れ物かな……ぁ」
まだ新しそうだった。雨は最近降ったり止んだりだから、たしかに持って歩いて、店から出る時に雨が止んでたら、忘れてしまうかもしれない。
「穴が開いてる」
おもむろに広げて、透明だからここからじゃわからないけれど、手に持っている公平には見つけられたんだろう。指でそこを押して穴が開いてることを確かめていた。
小さな穴、けれど雨が降ってきたら、傘としてはちょっと使い物にならなくなる致命傷。
「だから、置いてっちゃったのか……」
傘だから、小さくても穴が開いてしまえば即不用品。
「燃えないゴミの日に出すんだよね? 傘って」
「あー、そう、だね」
ただの傘だけれど、君が寂しそうな顔をして、もう穴が開いて使い物にならないと置いていかれた傘を丁寧に丸めた。
「ゴミは捨てるのも有料なのに……」
きっと、あまり優しくは……。
「そう思ったこと、あったっけ……」
君は……。
「……あはっ、なんてね。ゴミ出しも分別あるから大変だよね。そりゃ、穴が開いて使えないのなんてお金出して捨てたくないかもね。ただのゴミだし」
君は、使えなくなったと、小さなあなっぽこ一つで捨てられた傘のことを嘆いたのか。
それとも、ゴミですら有料で捨てるのに、と、何か悲しい自分の過去を思ったのか。
「あ、そしたら、俺、あとは何しようか? 照葉さん」
「……朝飯兼昼食、俺が作るから」
「え、いいよ。俺が」
「いいから。ちょっと座ってテレビ見てて」
手を引っ張って、部屋へと連れて行くと、まだ可愛がられるのも大事にされるのも不慣れな猫が座布団の上に座った。少しだけ、戸惑って、困った顔をしていた。
「公平、昼飯にしよう」
「あ、はーい」
ようやく動いていいと言われたことに喜ぶように背伸びをしてストレッチをした。
「今日のお昼はおにぎり」
「やった! 俺、照葉さんのおにぎりめちゃくちゃ好き」
ふにゃりと笑って、本当に嬉しそうにそれをテーブルへと運ぶ。まかないの時は店で済ませてしまうけれど、それ以外は居間のばーちゃんの仏壇の前で食事をしている。
「あ、それと、これ」
「?」
「直したよ」
ビニール傘。
穴は直径三ミリほどの小さなものだったから、その穴を透明で幅広のテープで裏表両方とも貼り付けておいた。こうしたら、雨漏れの心配がないだろ?
「それと店の名前を貼っておいたから」
「……ぇ?」
「これで、捨てたんでも置き去りになってたんでもなく、うちの、だろ?」
「……」
君は信じられない場所にいた、のかもしれない。けれど今は違う。
「さ、おにぎり」
「……」
今、君がいる場所は、テレビを見るなら、その座布団。ご飯を食べるのなら、俺と向かい合わせ。歯を磨くなら、洗面所。水を飲むのならキッチンへ。ここが君の場所だ。
「あ、あの、照葉さん、ありがと」
そっと手を引っ張られて、そっと背伸びをした君の唇が。
「ありがとう。大好き」
そっと触れた。
布団のシーツ、洗うの一枚で済むし、だから一緒に寝ないか? っていうのはあまりにも所帯じみてる? というより、シーツを洗う前提での提案がスケベ心が透けて見える?
一緒に寝ないか?
ダイレクトすぎる?
朝、また君の寝顔が見…………自覚できるくらいに、キザすぎだな。
じゃあ、なんと言えばいいのだろう。壁一枚を越えられる招待の言葉。君を自室に招くには。
あと少しで風呂から上がるだろう君を。
「……わっ、びっくりした。照葉さん?」
「……」
洗面所を開けた君とばっちり遭遇した。まだ黒髪が濡れてる。肌が艶めいていた。
「あ、えっと、いい湯だった?」
「……」
「あー、なんか飲む? お風呂上りに、コーヒー牛乳って、うちは銭湯じゃないけどさ。でも、何か持ってくるよ」
「あっ、あのっ!」
お茶、水、炭酸水にジュース、君の好みの飲み物を。
「あの……照葉さん、背中、沁みたり、してない?」
「いや、平気だけど」
「そ、そしたら、あの、俺」
「……」
壁一枚を越えられる招待の言葉。君を自室に招くには。
「明日、曇り、なんだって。だから、そのシーツ」
所帯じみてて、いいじゃん。君と一緒に寝たいのですが、いかがですか? そんな感じでも。別に。
「うん。俺も」
「照葉さん?」
「今ずっと君を布団に誘う方法を考えてた」
「…………っぷ、何それ」
君が優しく微笑むだけで世界はきっととても優しく変わるから。
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