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第31話 「うん」
世話をかけてしまったとお詫びと御礼を兼ねて二人が店へと顔を出した。
閉店少し前、客足が途絶えて来た頃に、すぐに帰るからと遠慮がちな美穂子さんと、気にしなくていいぞと、まるで我が家のごとく居座ろうとする図太い馬鹿野郎が。
仕事終わりに時間を作って来てくれたんだろう。彼女はお洒落ゼロの使い込んだ感じのする黒のパンプスを履いていた。
「その節は大変お世話になりました」
大きな菓子折りをまるで貢物のごとく差し出す永井とそのお嫁さんに……なるって事で落ち着いた、美穂子さんが並んでカウンター越しに頭を下げた
「別に気にしなくてよかったのに。美穂子さん」
「いや、そういうわけにもいかないだろ。これ、美味いらしいから」
「……お前は気にしろ」
「え?」
そこで「何で俺だけ?」みたいな顔をするなよな。お前のそういうとこだって伝わるように、顔をこれでもかとしかめたけれど、永井がそんなことで気が付くような性格じゃないのも知っているわけで。
溜め息をつきつつ、本日のお通しを用意した。小松菜としめじの煮びだし。少しだけ鯖の水煮も混ぜて。
夕飯は外で済ませてきたという美穂子さんは「美味しい」と朗らかに微笑んでいた。
決して、美人っていう感じではないのかもしれない。でも、笑顔が小さなかすみ草を連想させる人だ。
おおらかそうに見える。
今までの永井が付き合ってきた女性とは少しタイプが違ってた。もう少し、奔放というか、多趣味で活発な女性が多かったように思うから。
美穂子さんはゆったりしていて、なんというか。
「いやぁ、結婚準備再スタートってなったらさぁ、溜まってた宿題みたいに、決めないといかんことがあれこれ山積みで」
「もう、明日も仕事後にちょっと提出しないといけないものがあって」
「へぇ、そりゃ大変だ」
えぇ、と笑って、ビールを一気に飲み干した。
「あ、サワーなんかもありますよ?」
公平がスッとメニューを差し出すと、美穂子さんが頬を真っ赤にしながら照れくさそうに笑ってお辞儀をする。
店に来た時、挨拶をする公平に対して、その時も顔を真っ赤にしてたっけ。こんな綺麗な顔の人と話したことないからって、もじもじしてた。
「えっと……それじゃ」
俺や永井なんかと同じ歳なんだって教えると、ものすごいびっくりしてたっけ。「嘘! 見えない!」って大きな声で断言した美穂子さんは、第一印象のおっとりした感じとは違っていた。
「じゃ、じゃあ、レモンサワーを」
公平が隣に来ると緊張してしまうらしい。真っ赤なトマトみたいな頬のまま、ぎくしゃくしながら戸惑っていた。
「それ、婚約指輪?」
「あ、えぇ……はい」
こげ茶色をした髪を耳に引っ掛ける時、ふと目に入った、細いシルバーカラーの指輪。真ん中はとても小さな石が光っていた。
「綺麗ですね……」
控えめで、砂粒ほどに小さく透明に輝く石に、美穂子さんが目を細め、そっと反対側の指でその指輪を撫でる。
「さて、と、俺、ちょっと仕事の電話してくるわ」
照れくさいんだろう。永井は席を立つと、外へと出ていってしまった。
「……私で、いいのかなぁって、思っちゃったんです」
「……」
「その日も結婚式の準備ででかけてて、帰り、少し服見たいって言ったら。そこのお洒落なお店に、前の彼女がいて。ほら、よくありません? お店、入ってみたら、あ、ここ私の系統とは違う洋服屋さんだったー、みたいなの」
一歩店の中へ入ると地味な自分には到底似合わないようなお洒落な服ばかりだった。そこにいると急に自分の格好がダサく思えてきて、すぐに外へ出ようと思った。その時だ。
――あれ、もしかして。
声をかけてきたのはお店のスタッフさんだった。すごく脚が長くて、立ち仕事だろうにピンヒールを華麗に履きこなしてた。振り返ると親しみ易い笑顔で自分には会釈を、そして、彼にはもっと親しげに笑いかける。
びっくりした。久しぶり? 元気だった?
そこに今でも残る何か、はなかった。恋愛感情とか、未練とか、そういうものは見当たらないけれど、それでも、自分とは全く違う女性に抱いてしまった。
劣等感、というものを。
「なんで、彼は私を選んだんだろうって思っちゃって」
「……」
それと似たことを言った人がいた。
――照葉さんは、俺なんかにはもったいないよ、やっぱ。
「そしたら、なんかもう急に不安になって」
――不釣合いだし。
「あっちの人のほうがいいんでしょって、思い始めたら止まらなくって」
――俺みたいなの。
「完全マリッジブルーってやつです」
「あの……この前、店に来てましたよね」
公平に聞かれて耳まで真っ赤にして俯いた。そして、コクンと頷き、手をぎゅっと握る。
「ど、どうしてるかなって」
「え?」
「あの、彼って、少し、ズボラでしょ? だから、そのご飯食べてるかな。お風呂毎日入ってるかな、とか考えちゃって。なんか、どうしてるのかなって思って。変でしょ? 自分で離れたいって言ったのに」
「……」
「あの日、公平さんに見つかっちゃって、慌てて、帰ろうとしたんです。そしたら、彼が追いかけてきて」
美穂子さんはくすっと笑って、その小さな石の粒を指で撫でた。
「なんでマリッジブルーなのかなんてきっとわかってないくせに、すごい謝るんです」
もうなんでもいいから、俺が全部悪かったです、陳謝します! だから、機嫌直してくれって。
普通だったらそんなの呆れる場合が多いと思う。分かってないのにとにかく謝るなんてのはさ。けれど彼女はその時の永井の様子でも思い出しているのか、クスクスと楽しそうに笑ってた。
「最低でしょ? 怒ってる理由も知らないし、ちっともわかってないし。でもすごい必死で。あんな必死の顔した彼見たことなかったから、なんか、おかしくて」
あいつらしいなって思った。とにかく謝るのも。そして、彼女を伴侶にと決めたのも。
「知らないって、また怒ったんです」
「そしたら?」
「またただ謝るから、もう、なんか呆れちゃって」
「……」
「むかつくから、ずっとドレスのために我慢してたケーキ食べたいって言ったら、すぐに買ってくるって」
あれも食べたい、これも食べたい、なんでも「うんうん」頷く相手に向かって我儘し放題に言っていた。
「ドレスのことなんか気にすんな。デブでもブスになっても、ドレス着れなくても、別に死にゃしない、なんて言うんです」
デブでもブスでもいいなんて、失礼しちゃうって、笑って、愛しそうに指輪を撫でる、彼女を伴侶に決めた。
あいつは昔からそうだ。飄々としていて、どこか大人びた考え方をする奴で。
「あぁ、この人は、私がデブでもブスでもいいんだぁ……って思ったら、私の不安は消し飛びました」
「……」
「はぁ、仕事の電話終わった終わった。あ、なんだ? なぁなぁ、何の話してたんだ? 俺がイケメンって話してただろー」
「してるわけないじゃない」
こいつは昔からそう。飄々としていて、恥ずかしがり屋で世渡り上手で器用なくせに、ものすごく不器用で。
「いやいや、してたね」
「してないわよ」
「してたって」
そんなこいつが一生一緒にいたいと思った人は、ほがらかで笑顔が愛らしい女性だった。
「ああいう指輪、初めて、見た……」
「公平?」
二人が帰った後、掃除をしていると、ぽつりと独り言のように言って、彼女が指輪をしていたのと同じ手をじっと見つめる。
「いつも、着飾るだけのアクセサリーしか見たことなかったから」
「……これからは」
「?」
君のその手がこれから触れるものは、君のその瞳がこれから見つめるものは。
「たくさん、見られるよ」
「……」
「俺が、君に見せてあげる」
全て、温かく、柔らかく、優しいものばかりになるよ。俺が、その手を。
「うん」
頷いて、君は、俺を見つめて、俺の指をきゅっとしっかり握り締めた。
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