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第40話 あの日

「性接待……っていうの、ホントのことだよ」  恋人同士になってからは俺の部屋で一緒に寝てた。もちろん、今日も。公平が先に風呂に入って、俺はその間に店とうちの戸締りの再確認をして、最近寒くなってきたから、温かいお茶を作っておこうかなって。作りたてのほうじ茶をポットに入れて、二階の部屋へと持っていったら、ぽつりと、公平が呟くように。 「抱かせてやれって言われたら、抱かせてた」  ――相手の顔とか気にしなくて、っ、いいし、俺も、顔、見られなくて済む、からっ。 「拒否権なんてなかったしさ」  ――尻孔のほうが痛い時とかは口でして誤魔化して済ませてた。 「金、って思って、我慢した」  ――俺、は……汚いから。 「……公平、俺は」 「聞いて。俺、隠そうとしてた。あのさっきの人が来なかったら、ずっと言わずにいたと思う」  公平が肩に力を入れて、手をぎゅっと握り締めて、膝を抱えた。 「母親はすごい美人だった。若い頃はモテてたんだって」 「……」 「でも、俺を産んでからは忙しそうにしてた。頭なんかボサボサ。なんか、あんま仲良くなかったんだと思う。子どもの頃だったから覚えてないけど。離婚したのは俺が小学生の頃」  その頃の記憶はぼんやりしていて、けれど気が付いたら母と二人暮しだった。  二人、と認識できてないみたいに、母は離婚した後、鏡の前にへばりついてばかりだった。一生懸命に化粧をしている後姿を覚えてる。化粧に、洋服、自分のために金が使えるって、やっとだって言ってたのは覚えてる。あと、嬉しそうに笑ってた。 「再婚は、一回した。けど、すぐに別れて、また鏡の前に陣取ってばっかでさ」 「……」 「俺は、高校は中退。その時付き合ってた男が年上だったから、そのうちに上がりこんで」  あとは、もう……そう小さな声で呟いて、膝を抱えた腕に力を込める。 「でも、少しだけ、わかったりもしたんだ」 「……」 「母親のさ、どんどん老けていく自分の姿に焦るっていうの。あの人のこと好きか嫌いかはわからないけど、親子なんだなぁって思ったよ。だからいつかああなるんだって、怖かった」  嘆くばかりの毎日。どんどん何かが萎れていく背中。そして、一人ぼっち。 「あの人、アクセデザイナーの、あの人さ、最初、すごい優しかったんだ。たくさんプレゼントをくれて、ピアス、穴開けなよ、そのほうが絶対にセクシーだから、とか言われてさ。俺、いうとおりにしちゃう馬鹿だから、簡単にあの人のこと信じて」  借金を肩代わりしてくれて、優しくしてくれて、少し有頂天だった。 「あの日、ここで俺が雨宿りしてた日」  よく覚えてる。秋の雨は冷たくて、薄着にサンダルだった君はひどく寂しそうに見えた。 「あの日、初めて性接待させられたんだ」 「……」 「着ろって言われた服着て、待ち合わせの場所に行ったら、もう一人男がいた」  デートだと思ってたんだよって、呆れたように笑ってる。笑って、抱えた膝をもっと自分の胸にくっつけて、小さく小さくなった。俺は、あの時、君はそういうの手馴れてるって思ったんだ。  ――お礼はたんまり、のほうがいい? いいよ。別に、俺、けっこうそういうの抵抗ないし。  やたらと薄着で、サンダルで、雨に降られてどこにもいけなくなった。 「もう二度としたくないって、言ったら、じゃあ、捨てるわって、笑いながら追い出されたんだ」  俺は、帰してしまった。長靴を履かせて、君を「どこか」へ帰らせてしまった。  次に君がうちに来た時、君は覚えてないかもしれないけど、俺は覚えてる。捨てるのだって有料なんだよって、言ったんだ。  どんな気持ちでそれを言ったんだろう。 「金なんて持ってないから行く場所なんてない。ゴミよりももっとゴミ。戻ったら、身体は綺麗だったから気に入ってたんだ、戻ってきたんならわかってるよな? って……さ」  どんな気持ちであの長靴を履いて帰ったんだろう。 「面白いよね。身体って正直なんだなぁって思った」  言うなりになって開けたピアスの穴が、性接待をさせられてからズキズキ痛んで、見れば真っ赤に腫れ上がってた。それまではなんともなかったはずなのに、身体が嫌だ嫌だと悲鳴を上げるみたいに痛くて仕方なくて。 「もう、そっからセックスは苦痛でしかなくなった。射精はするのに気持ち良くなんてないし、何もかも汚くて、すればするだけ穢れてバイキンまみれになっていく。だから腫れてくって。でもね」  長靴を返しにここに来た時、あかちんを塗ってくれたでしょ? って、君が笑って、もう腫れてない自分の耳朶を指で摘んだ。穴らしきくぼみはあるけれど、もう何もそこには宝石はつけてない。ただの普通の耳朶。 「穴んとこにあかちん塗ってくれたらさ、なんか、バイキンだけじゃなくて、嫌いなものから全部守ってもらえてる気がしたの」 「……」 「あの時、初めて、真っ直ぐ鏡を見た気がした」  老いたかもしれない、汚れてるかもしれない。そんなふうに何かに縋るように鏡を見るのではなく、ただ、真っ直ぐに自分を見た。 「それでバイト初めたんだ。もう一回頑張ろうって。あの男には、殴られて、ぼこぼこにされたけど、って、ちょっ、照葉さんっ?」 「……ごめん」 「……」  きつく抱き締めた。痛かったのは君。悲しかったのも、辛かったのも、悔しかったのも、全部君だ。俺は何もしてあげられなかった。だから、俺が泣くのはおかしいけれど。 「ごめん」 「……照葉、さん」 「ごめん」 「……なんで? 俺、めちゃくちゃ助けてもらったよ」  あかちんを塗ってくれたじゃんって、君が細い身体を全部俺に預けて背中に手をしっかり回してくれる。耳元で聞こえる君の声は悲しそうなものじゃなくて、優しい声色だった。その声が一つずつ言葉を言う度に腕の中が零れる吐息で温かい。 「ご飯、餌みたいになってたんだ」 「……」 「でも、美味しかった。照葉さんのおにぎり。救われた。俺、人間だったって思い出した」 「俺は、何も」 「たくさんしてくれた。ねぇ、人間って思い出させてくれた」  奴隷じゃない。物じゃない。 「ねぇ、照葉さん……」  道具じゃないって。 「俺、こんななんだ。こんな、だけど」  抱き締める腕を緩めると、君が覗き込むように見つめてくれる。一度、瞼をしっかり閉じてから、真っ直ぐに目を合わせて。  黒い瞳はとても綺麗だった。 「照葉さんのこと、好きでいていい? 薄汚れてるけど」 「一つ、我儘を言ってもいい?」 「え? うん。いいよ! 何? あの、俺、できることがあるなら、なんでも」 「クリスマスプレゼント欲しいんだ」 「うん! 何?」  君は料理を手伝ってくれるけれど、でも、自分ではあまり作ろうとしなかった。最初は料理苦手なのかと思ったんだ。あと、俺は君を大事に、大切にしたいからさ、料理して欲しいとか少しも思わなかっただけど。  君は多分、イヤ、なんだろう? 「おにぎり」 「……え?」  自分の手で料理を作るのは、イヤなんだろう? 「クリスマスに君が作ったおにぎりが食べたい」 「……」 「二人でパーティーをするんだ」 「で、でもっ」 「もう、俺は、泣かない」 「……」  ごめんね。俺は非力だ。 「照葉さん?」  額をくっつけて、一つ深呼吸をしてからもう一度抱き締めた。 「君の作ったおにぎりが食べたいから、泣かない」  強く、君を誰からも、何からも守れるよういくらでも頑張るからと、抱き締めた腕に力を込めた。

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