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ショコラ編 3 雨宿り

 甘い甘いバレンタイン、甘い甘い君の――。 「おーおーおーいーいーいーいー」 「……」 「いーいーいーいー」 「……おい」  低い、ざらざらした汚い声が邪魔をする。 「もうおにぎり食べただろうが、帰れ。なんだよ」 「いやぁ、バレンタインの翌日にその締まりのないスケベそうな笑顔はないわぁ。お兄ちゃん、ドン引きだわぁ」  永井がものすごく顔を歪めて、仰け反ってまで「いやらしいわぁ」って人をスケベの塊みたいに罵ってくる。  うるさい。  スケベの塊だって開き直ってやろうか、本当に。 「そっちこそ、新婚ほやほやだろ」 「はぁ? そーんな甘いわけないだろ。チョコレートどころか、糖代謝促進作用のある茶飲まされたわ。お前も照葉さんみたいになれなんて言い出すんだぜぇ?」  いや、そんな当てつけみたいに溜め息を吐きかけられても。 「愛されてる証拠だ」  お前の健康を願ってだろ。大酒飲みだし、独身の時はしょっちゅう飲み屋で晩飯済ませてただろ。塩辛いもんばっか好きだし。かと思えば甘いのも好きだし。 「は、はぁ? バーカ、ちげぇわ」 「照れてやんの」 「うっせぇな! バーカ」  中学時代と変わらない悪態を言い合って、永井はカウンターにお代を置いた。 「ほら、お前と長話したせいで雨降ったわ」 「なんで、俺のせいなんだよ。永井、傘は?」  傘なんて持ち歩くタイプじゃなかった。濡れたってかまわんだろって言うような奴。そんな奴が鞄から折りたたみ傘を出したから、見えないように隠れつつも笑ってしまった。持たされたんだろう。ほら、やっぱり愛されてる、なんてからかったら、きっとこう言うだろう。  びしょ濡れでうちに帰ってこられてもイヤだと押し付けられたんだって。 「公平クンは? 大丈夫なの? どこ行ってんだっけ? なんなら俺、しばらくだったら店番しててやろうか?」 「いや、平気。ちょっと買い物に出かけてるだけだし、すぐに戻るし、傘なら持っていったから」 「そっか。そしたら俺帰るな。雨ひどくなってきたから」 「……あぁ」  どこかで雨宿り、してくるかな。あの日の雨も冷たかったけど、雪にはならなかったとしたって、それでもまだ二月の雨は秋のそれ以上に冷たいから。  俺が行けばよかったって、胸の内で後悔をしながら、店をあとにする永井の背中を見送った。  永井が店の入り口を開けた途端、激しい雨の音がした。  本当にあの日に似てる雨だなって、思って。 「うわっ……すんません」  永井が店を出てすぐ誰かに謝った。誰だろうと、永井が見て驚いたそちらを覗きに外へと出る。 「…………」  外に出た途端、なんとなく雨雫が飛び散って顔にかかった気がするほど、激しい雨。 「…………ぁ」  そこにいたのは。 「ぁ、あの、ごめんなさい」  あの日、雨宿りをしていた君と同じように膝を抱えて灰色をした空を見上げた、男性だった。 「あー……えっと、中、入って大丈夫ですよ?」 「え、ぁ、いいの?」 「どうぞ。雨、急にすごいから濡れちゃうでしょ?」 「あ、うん」 「どうぞ」  暖房、少し強めたほうがいいかな。 「ありがと」 「服、ハンガーかけていいから」 「あ、うん」  コートを脱ぐと一瞬同性ではなかったのかもしれないと思いそうになるほど細くて、濡れ髪のせいなのかな。色っぽい。 「おにぎり屋さん? へぇ、珍しい。今はお店閉めてるのかぁ、残念」 「作れるよ? 作ろうか」 「あー……食べたいけど、今日は夜ちょっと用があるから」 「? そう?」  夜、用があるなら今のうち食べたほうが、なんてとってもおせっかいでしょ。 「やだなぁ、雨、髪がうねるし」  違うものだなぁって思った。  ――いえ、雨宿りしてるだけなんで。  ぶっきらぼうに、仏頂面でそう言ってたっけ。雨がすごくなるって一言二言話しかけられたのがイヤだったらしくて店の軒先から逃げ出そうとした可愛い野良猫。 「どうしたの? おにぎり屋さん」 「え?」 「笑ってるから」 「……あぁ」  本当は笑えない悲しい気持ちでここにいた君。 「雨宿りが懐かしかったから」  けれど、あの仏頂面はもう最近じゃ全く見かけなくなった。仏頂面も、ぶっきらぼうも、眉間の皺も、寂しがりな瞳も、もう見かけなくてさ。 「…………おにぎり屋さん……?」  見かけないことが嬉しかったから。 「照葉さん、ただいま、雨、すごくて」 「あ、おかえり。すごくなってきたから大丈夫かなって思ってたところだ」 「……」 「雨が収まるまで雨宿りしてくるかと思った。靴濡れたでしょ?」  雨が降る予報は出てた。でももう少し遅かったんだ。店をおにぎり屋から小料理屋に切り替えて、夜の営業を始めたくらいに降り始めるでしょうってなってたから。こんなに早くに降り始めるのなら、俺が買い物には行ってたし、君が、行くと言ってきかないのなら長靴を履かせてた。  過保護だって、君は言うけれど。好きな子を大事にしたいって思うのは当たり前でしょ。 「着替えてくれば? あ、こちらの方はさっき店先で雨宿りしてたから」 「…………透(とおる)」 「え?」 「…………公平?」  そして、雨はおさまるどころか、強さを増して、雨音が部屋の中にも降り注いだ。

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