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ショコラ編 6 我儘くらいでちょうどいい
一日の終わり、じゃあ、そろそろ暖簾を仕舞おうかっていう時、君の柔らかい笑顔を見るとホッとするんだ。
不思議だよね。一人で店をやっていた時、寂しいとちっとも思わなかったんだけどなぁ。
「透君、今日はありがとうね。すごい助かった」
テーブルを拭いていた彼は顔を上げて、頬を赤く染めた。「いいえ、どーいたしまして」なんて少しぶっきらぼうな言い方も、やっぱり出会った頃の公平にちょっと似てる。
「疲れたでしょ? ずっと立ちっぱなしで。いつもこの後夕飯なんだけど、公平、めちゃくちゃ食べるんだ。それでもまだ細いけど。この前、唐揚げを出したら俺より食べてたっけ」
「……」
「サラダとかさ、ボールで食べるし」
「……」
「けど、野菜食べてる時は、なんかウサギっぽいっていうか、あ、でもカモシカっぽいかな」
「…………楽しそう」
彼はニコッと笑って、テーブルを拭いていた手元へ視線を移す。
「いいなぁ、楽しそう」
「……」
「俺さ、昨日、雨宿りしてたでしょ?」
「あ、うん」
「セックスしに行く途中だったんだ」
「っぐ、げほっ、ごほっ」
思わずむせたら、彼は慌てて駆け寄って、背中をトントンと数回叩いてくれた。叩いて、何も食べてないのになんでむせてんのって笑って、カウンターの椅子にちょこんと座った。
相手は、とってもお金持ちで妻子持ちで高級車持ちのセレブ。ハッテン場で引っ掛けたんだそうだ。
「おにぎり、大丈夫ですって言ったでしょ? コンディションっていうかさ、ほら、準備っていうかさ」
「……」
でも、彼は昨日――。
「けど、なんか公平に会えてさ、食べちゃった。おにぎり」
「……」
「セックス、キャンセルしちゃった」
「……」
カウンターの椅子をくるりと回す。彼の黒髪がその回転に合わせて、わずかになびいてた。
昨日、とても甘い香りがしてたっけ。妖艶で、鼻先から喉奥に残るような甘い甘い香り。誘惑するような甘い香り。
「調理師免許を持ってんの。本当に。一人でさ、生きてかないといけないでしょ? パートナーなんてそう簡単に見つからないし」
「……」
「けど、たまに心細くなると、おうちに、仕事に、何かしらに不満とか、溜め息でちゃいそうな不安とかを抱えてるおじ様と傷の舐め合いをしちゃうわけ」
一人で、生きていく、かぁ。
「そして、不毛だなぁって思って、また次の日、一人で目が覚めた時に溜め息ついちゃいそうになるから、その前に、いかんいかん、これではダメだって、思うわけ」
「……」
「でもやっぱり寂しいなぁとも思っちゃって」
その繰り返しだと言って、目の前に広げた自分の手を見つめている。
「だから、羨ましくて、誘惑してみようかなと思ったんだけど。引っ掛からないよね」
「……」
「いいなぁ」
くるくると右へ左へ、回転していた椅子から降りた。
「だから、さっき、お昼休憩の時にスマホからぜーんぶおじ様の連絡先消してブロックもした。あ、とりあえず、お金は頂戴してたのでお礼は言ったよ?」
今までありがとう。これから頑張ります。
そうメッセージは入れておいた。
「今日は、ありがとうね」
「いや、お礼を言うのはこっちのほうだからっ」
「一日体験楽しかった」
「あのさ、これ、今日のバイト代」
「え、いいよ」
「それはダメ。絶対に。働いたら、その分の報酬はもらわないと」
彼は茶封筒を受けると、くすっと笑った。そして、それをポケットに突っ込み、エプロンを取った。
髪をくしゃくしゃにして、ふぅ、と大きく息を吐く。それはまるで、何か、頭の中にあるものを払い落とすような仕草にも見えた。
「夕飯、食べていってよ。公平も、君と」
「うーん。大丈夫」
顔を上げると、少し印象が違ってた。
「一人で、食べたいご飯を選んで食べるよ」
「……」
「一人を満喫できるようになる。そしたらさ」
人は、我儘だ。
「いつか、誰かと二人でいる時間も満喫できる自分になれるかもしれないでしょ」
一人を楽しんでたんだ。俺は。
サラリーマンを止めて、もうそういうしがらみを全部なしにしたくて、ここを継いだ。
毎日楽しいと思っていた。日々、色んな人が来て、色んな「ごちそうさま」をもらって、色んなおにぎりを作って。毎日が違っていて、毎日が新しくて、それがとても楽しかった。
「今日はありがとうね。晩御飯はこれでちょっと豪華にしちゃおうかな」
「うん、そうして、あ、けど、そんなには」
そのセレブなおじ様ほどの金額はしがないおにぎり屋ではちょっと出せそうにないなぁ。
「いいよ。嬉しい。けど、やっぱ、三十路で一日労働はきつかったぁ、まずは体力つけないといけないかも」
一瞬、フリーズした。
「三十、路……?」
三十路って、言った?
「うん。言わなかったっけ? 俺、公平の一つ上だよ?」
「……」
「若く見えるでしょ? 美容はめっちゃ気を使ってる。お尻なんてつるんつるんなんだから。それこそ、タチにお尻でも肌でも爪なんて立てられたら、引っ掻き返して、その場でバイバイだよ。もう三十路だと傷が残るんだよねぇ」
やっぱり、三十路って、言った。
「それじゃあね!」
「あ、えっとっ」
「だから、透君、じゃなくて、次、もしも万が一、億が一にもまた会うことがあったら、透、さん、だからね!」
もっとたくさん会えたらって思うよ。万が一だなんて、そんな寂しいことを言わないで。
「あ! あと!」
お店を出ようとした彼が慌てて戻ってきて、ずいっと至近距離まで詰め寄るから、思わず一歩退いてしまった。
「少し、やっぱり太ったよ。公平。昔はもう本当にめちゃくちゃ細かったんだから」
「……」
「でも、今の感じのほうが俺は好きだよって伝えて?」
そして、彼は出ていってしまった。
「ねぇ! 本当に会ってかないの?」
「……」
笑って手をブンブンと元気に振っていた。そして、くるりとこちらに背を向けて歩き出す。ずんずん、ずんずん。真っ直ぐと。煌々と繁華街を照らす看板の中、あっちこっちと行き交う人の中を、颯爽と歩いていく。
人は、我儘だ。
一人ぼっちの毎日を楽しんでいたのに。
「公平、彼、帰ったよ」
「ぁ、照葉さん」
一人ぼっちが楽しくなくなった。今は、君といないと寂しくて。
「熱はどう?」
寂しくてさ、たまらないんだ。
「うん。もうずいぶんいいよ」
けれど、そう寂しいと思えることも幸せだなぁと思う。
彼もそんな我儘な人になって欲しいと思ったんだ。
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