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初めてのわがまま編  3 オフロガワイテイマスカラ

「怪我はっ?」 「だ、いじょう、ぶ」  本当に? 本当に大丈夫? 「照葉さん、こそ」 「俺は大丈夫だからっ」  びっくりした顔をしてた。君がものすごくびっくりした顔を。でもその顔にも手にもどこにも怪我は今のところなさそうだったから。 「…………はぁ」  安心して、その場に大きな大きな溜め息を一つ落っことした。 「ごめんなさいっ、あのっ」  大慌てでスーツケースを運んでいた彼女が駆け寄ってきた。 「大丈夫ですか? スーツケース、大丈夫かな。そちらは怪我はしてらっしゃいません?」 「いえ! あの私はっ」  彼女は無傷のようだった。彼女も手から滑り転がったスーツケースを追いかけて、階段を踏み外したんだろう。ズボンを履いていたからラッキーだった。尻餅はついてしまったみたいだけれど。背後が真っ黒になってしまったから。けれどスッと立ち上がっていたからそう大事にはならないと思う。  その女性に、ここの駅は少しわかりにくいのだけれど、少し行って、左側にエレベーターがあるから、そこを使うといいと伝えた。こちらは大丈夫だからと告げて。スーツケースの中身が壊れたり、グチャグチャになってないといいのだけれどと心配すると、そんなことはないと首を横に大きく振った。  こちらは本当に大丈夫。なんともないし。勝手に慌てて転んだだけだから、そちらがなんともないのなら平気だからと。急いでいるようだったから、気にしないで良いと笑った……んだけれど。  笑ったんだけどね。 「手首の捻挫ですね。まぁ、幸い軽いので、湿布貼って安静にしていてください」  ただ尻餅をついただけだと思ったら、案外手首をやってしまっていた。あの瞬間、痛いと思ったのは、手を付いた時にグギっと捻ってしまったんだろう。  なんというか、ただあれだけで手首の捻挫をするっていうのが、なんとも、かっこ悪い。 「はぁ、ただいま。年賀状出しに行くだけでえらい時間かかっちゃったな。風呂、沸かさないと」  歩いて五分のポスト。往復で十分。外は急に冷え込んできてたから、病院にも行ってたし身体が冷え切ってる。沸くまで十五分くらいあるからコーヒーでも淹れようかな。付き添ってくれた公平も疲れただろうし。 「……照葉さんっ! あのっ」  結局、年賀状を出すだけで、一時間半もかかったことになる。 「ごめんなさっ、っ」  リビングの真ん中で、泣きそうな君のおでこをデコピンした。あんまり痛くない程度に。 「心臓止まるかと思ったよ」 「お、俺こそっ、あの、っ照葉さんにっ」 「大きな声出してごめん」  本当、かっこ悪い。慌てて、狼狽えて。 「でも、公平に何かあったら嫌なんだ」  あんな駅前で、あんなに大きな声出して。 「君が痛い思いをするのも、怖い思いをするのも絶対にごめんだ」 「俺はっ」 「痛いのが平気とか、慣れてるとか言わないように」 「……」  それは慣れていいことじゃない。 「って、言ってる俺がさっき君を怖がらせたけどね」  大きな声で怒鳴られたら、誰だって怖いだろう? それなのに、俺がそれをしてしまった。 「ごめん」  そっと、デコピンをした額を指先で撫でると君が反射的に目を閉じた。怖いから、とかじゃなくて、猫がさ、猫が撫でられて気持ちいいと目を閉じるみたいにそっと。 「ううん、俺が悪いんだ。俺っ」  俺は平気。へなちょこそうには見えないだろ? かっこ悪いほどに慌てたりはしたけれど。身体の方は幸い頑丈にできてるんだ。ただ、少しだけ、歳を感じるこの程度のアクシデントで傷めた手首にがっかりだけれど。 「お店……ごめんなさい」 「平気、それにどこももう仕事納め終わってるでしょ? 来るのは常連のご近所さんくらいだから」  基本うちの店にはこの辺りで仕事をしている人がランチをしにやってくる。それと仕事帰りに一杯引っ掛ける人くらい。だから、むしろこの大晦日前は暇なんだ。君も去年経験してるだろ? いつもはもっと賑わう時間帯なのに、今日は少ないねって驚いていた。だから大丈夫。  ただ、そうだな。少しだけ手が痛いから、うーん、これを言うとオヤジ臭いかなと思いつつ、でも――。 「あ! そうだ! お店で思い出した! ご近所のお豆腐屋さんが油揚げをとっておいてくれるって言ってたんだ」 「油揚げ?」 「そう、お蕎麦に入れるでしょ? 去年、照葉さんが入れてくれて。それが美味しかったって話したら、お豆腐屋さんが」  お豆腐屋って、角のところの? おばちゃん?  あの人、公平のファンだもんね。うちのばーちゃんと仲が良くて、たくさん良くしてもらっていたからと、俺がこの店を継いだ時から、そのお返しに今度はうちに良くしてくれてたんだけど、最近はもう公平のために色々と世話をしてくれてるというか。 「後で行くって言っておいたんだけど、この怪我とかで遅くなっちゃった。待たせてるかも」 「あ、うん」  そう? スマホでさ、そのこと伝えればいいんじゃない? 公平、そのスマホは俺の写真を撮るのと両親への電話以外にも使い道が色々あるかと思うんだけど。 「俺、取りに行ってくる!」 「へ、今?」 『オフロガワキマシタ』  でも今お風呂が沸いたってさ。それでさ、俺、ほら怪我してるから、その、ね? 「お豆腐屋さん、朝早いから眠いと思うしっ」 「あ、ぅ……ん」  そ、かもね。 「いっています! あの! 照葉さんはお風呂入ってて!」 「あー、うん」  怪我は外傷ではないけれど、でも温めると良くないらしいよ? だから、まぁ邪な気持ちがないと言えば嘘になるけれど、その一緒に風呂をって思ったんだけどさ。  お豆腐屋さんの朝寝坊を心配してあげる優しい君。俺に怪我をさせてしまったからと一生懸命に走り回ってフォローをしようとしてくれる君。そんな君が愛しくて、愛しくてたまらない俺はあれこれ理由をくっつけて、一緒に風呂に入りたかったんだけど。  ――ピンポンピピン、ピロリロリロリン。  湯沸かし器の「ほら、風呂が沸いたぞ」って知らせる呑気で軽快な音楽に急かされて一人で風呂に入るより他はなさそうだった。

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