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第18話
墓参りから帰ってきた後、依は気分がすぐれないからといって部屋に籠ってしまった。帰りの電車の中でも会話はほとんどなく、目も合わなかった。避けられていることは明白で、時間が経つにつれショックが拡大する。ひどい態度をとったのも、格好悪いところを見せたのも自分だし、実は相当嫌われていたのだとしても自業自得だ。でも、頭ではそうわかっていても、じりじりと燃え広がりつづける感情が思考を邪魔する。
時刻は午後五時を回ろうとしている。そろそろ夕食のことを考えてもいい時間だ。家に到着してからもずっと落ち着かずに気を揉んでいた隼人は、とうとう耐えきれずにそれを理由に依の部屋を訪れようと決め、自室を出た。
「あ……」
キッチンで水を飲む依の姿を見つけ声を漏らすと、隼人に気付いた依が身構えた。隼人はじり、と焼け付く痛みを感じながら、カウンターに歩み寄る。
「何してんの?」
「え……と、あ、グラス」
依はほとんど声にならないような掠れた声で答えて、慌ててグラスを洗った。
「なんかさっきから変じゃない?」
もどかしさから、隼人は自然と早口となった。依がわずかに俯き目を泳がせた。
「……何も……あー……と、図書館、行こうかと、思ってた。早く行かないと閉まっちゃうよね」
「大学の? これから?」
「うん……本、返さなきゃいけないから」
口元にぎくしゃくとした笑みを浮かべる依と、相変わらず交わらない視線に隼人は段々と苛立ちを覚えた。
「……じゃあ、俺も行く」
「え?」
「テストん時借りてた本、返すの忘れてた」
返却本があるのは本当のことだったけれど、本当は夏休みが明けてから返すつもりでいた。明らかに自分を避けようとしている依を見て、隼人はむきになっていた。
依は困惑した様子で、それから乾いた笑いを漏らした。無理をしていることがすぐにばれるような下手な作り笑いだ。
「あ、じゃあ、俺、返して来るよ」
「いい。結構量あるし。重いから」
「平気だよ」
「俺が行ったら、なんか困んの?」
終わりの見えない譲り合いに嫌気が差して、隼人は卑怯な手を使った。依は表情を失くした顔を上げ、首を横に振った。抱き締められたことが余程嫌だったのか、何か他にあるのか、急に依の態度がおかしくなった理由が隼人にはよくわからない。かといって今この場で尋ねたところで、はぐらかされるだけのような気がした。
マンションから二人の通う大学までは、徒歩十五分ほどである。風もわずかに揺らぎ出す夕刻とはいえ、気温はまだ三十度をゆうに越えているようだった。隼人の少し前を歩いている依は俯きがちに、けれどしっかりした歩調で歩いている。やはり汗はほとんど掻いていない。隼人は額に滲む汗を手の甲で拭いながら、堰が崩れた瞬間のことを思い出した。見開かれた目と、手のひらの感触、依を引き寄せて感じた吐息。キューブアイスを燃えたぎるマグマに落としたように、一瞬でこれまでの全ての感情が一か所に収束した。
「あの、隼人くん」
住宅街を抜けキャンパスに面した通りに出て、門も間近というところで、依が突然隼人を振り返った。
「……なに?」
「ここまででいいよ。あと、俺返しておく」
「俺、行くって」
「ついでだから」
有無を言わさないような強い語気と深い笑みで、動けなくなった隼人から依が本の入った紙袋を取り去った。
「依、」
「ありがとね」
「は?」
「ありがとう」
それだけを言って隼人に背を向けた依の腕を、隼人はすかさず取った。焦燥に呼吸が浅くなる。
「何だよ、それ」
「何か……なんとなく。言いたくなっただけ」
「嘘つけ。おかしいだろ。大体、何で俺のこと避けてんだよ」
隼人は依の腕を引っ張り、無理矢理体の向きを変えさせた。二人分の返却本の重みに振り回されるように、依の体が頼りなく揺れた。
「墓でのこと、怒ってんの?」
「離し……」
「理由。聞くまで離さない」
夏休みのキャンパス前とはいえ、人通りは少なくなかった。大きい通りで、キャンパスの向かいには多くの店が林立している。けれど隼人はそんなことに構っている余裕がなかった。
「離して」
「離さない」
「っ……!」
隼人の即答に、依は目を閉じて隼人の手を振り払った。華奢な体でも、それは男の力だ。隼人はそれを実感したけれど、それでも焦燥はなくならなかった。
「……今週中に、出てく。ごめん。ペンダントも返すよ」
「は……?」
「いつまでも、お世話になってるわけにいかないよ」
「何、言ってんだよ。そんな、急に……」
「急じゃない。もう二カ月経つよ」
「え?」
「隼人くんが言ったんだよ。二カ月って。費用も……何とかなりそうだし、もう、あの家にいる理由がないよ」
隼人はようやく、昨夜依がカレンダーを見て動揺した理由に気付き、それについて全く考えもしなかった自分の呑気さを呪った。
「理由、って……」
理由と言われて咄嗟に答えられなかった隼人に、依がわずかに頭を振った。まるで隼人が何か答えられるはずがないといわんばかりだ。
「俺のペンダント、やっぱり、捨てていいから」
「よ……」
「隼人っ!」
二人の間の淀みを蹴散らすような甲高い声に、再び依の腕に伸ばそうとした手が宙を切った。
「……っ」
棒きれにでもなったかのように力の入らなくなった腕を、強烈な力に引っ張られ、隼人は思わず振り向いた。
「っまりか……?」
隼人の右腕にしっかりと自分の両腕を巻きつけたまりかが、不思議そうに隼人を見上げた。それは最悪のタイミングにも思えたし、今しかないタイミングのようにも感じられた。その一瞬で、隼人はほぼ覚悟を決めることができた。
「隼人、何してるの?」
「え、と……」
混乱しながら依とまりかを交互に見やると、依がにっこりと微笑んで、紙袋をわずかに持ち上げた。
「じゃあ、俺行くから、これで」
「っ依、おい……!」
依は何事もなかったかのように二人に背を向けてキャンパスの方へと歩いていく。咄嗟に追いかけようとした隼人は、けれど、まりかに腕をがっしりと掴まれてしまいそうすることができなかった。
「ヨリ……くん? 友達?」
きょとんとして首を傾げるまりかに、隼人は言葉をつまらせた。まりかはそれを肯定と取ったらしく、えー、と奇異の声を上げた。
「あんまり隼人の友達っぽくないね。なんか暗そう、っていうか?」
初めて会った時には同じ感想を抱いたことを棚に上げ、依を馬鹿にするような声と表情に隼人は腹を立てた。まりかの腕をさりげなく離す。
「いや……てか……今日、撮影じゃなかった?」
「うん。もう終わったよ。でもまりかレポートやんなきゃなんなくて」
まりかはつまらなそうに言って頬を膨らませた。依の姿はもう見えない。隼人ははやる気持ちを持て余しながら、キャンパスの門の方を見やった。
「明日までに提出しないと単位出ないの。でも、せっかく隼人と会ったから、明日にしよっかなー」
体を捩らせて隼人に指を絡めたまりかは、ふと表情を強張らせ、隼人を見上げた。
「……あれ」
「え?」
「指輪、してないの……?」
まりかの瞳が翳る。隼人は言葉をつまらせた。
「……ごめん」
「どうして?」
語気が強められる。彼女は明らかに不自然さを感じ取っていた。
答えはわかっていた。依にどうしようもなく惹かれていて、ただ、失えない。今、それ以外のことはどうなっても構わないと思うくらいに。
「……、」
隼人が言葉を選んでいる間にまりかはみるみる顔色を失って、やがて何かを悟ったように一歩引いた。
「ごめん」
「……なんの話? ごめんって、なにが?」
まりかの震えそうな声に、ひどい罪悪感を覚える。すべて自業自得だ。何もかもから目を反らして生きてきた。自分だけが守られた殻のなかで誰かを傷つけて、それでも自分は被害者だと言い張って。
「依……今、一緒にいたやつと、一緒に住んでる」
あまりにも脈略のない告白に感じられたのか、まりかは話が見えない、といった様子では、と小さな笑いを零した。目を閉じてゆっくりと息を吸う。ひどい暑さなのにあまりそれを感じなかった。
「母親が死ぬ前から家に住んでて……最初はさっさと出てけばいいって……思ってたけど。でも……自分でもどうかしてると思う……けど……今は、あいつのことしか考えられない」
まりかが表情を失くしたまま首を振る。
「何言ってるの? 今のひと……って、だって、あのひと男じゃん!」
「……」
「意味わかんない。なんでそんな話になるの? それとも嘘ついてる? 本当は他に好きな女の人がいるの?」
「そうじゃなくて……、本当、ごめん……」
「……、」
謝罪のほかに紡ぐべき言葉が見つからない。胸の中心が早鐘を打ちながら隼人をせかす。
「だから、ごめんって何が? 急に男の人が好きとか……そんなわけないじゃん!」
「自分でも、そう思うけど。でも……」
「でもじゃなくて! 隼人、すっごいひどいこと言ってるよ? ねぇっ、わかってる?」
「……わかってる」
「じゃあ! じゃあ、今のなしにして。嘘だって言って。そしたらまりか、忘れてあげる。聞かなかったことにできるよ」
まりかが隼人に詰め寄り、目に涙を浮かべながら隼人の胸を強くたたいた。戻れるなら、もうとっくに戻っていた。まだ明るい時間で、こんな人目につく場所で、目の前には泣いて訴える彼女がいて。それなのに、頭に浮かぶのは依のことばかりだなんて。文句を漏らした焦げたベーコンエッグ、からからの喉に沁みた彼の淹れた麦茶、細い首筋、触れた手のひらの冷たさ、透き通った声。ボタンをひとつずつ止めていくみたいに確実に、恋に落ちてしまった。
「本当……ごめん……別れたい」
「っ……!」
「ごめん……っ」
「っ最低!」
もういい、という言葉を投げて、まりかは隼人に背を向け早足で歩きだした。罪の名の大きな錘が心臓にぶらさがり、隼人はその痛みに思わずその場によろけた。
これでもし依にはっきり拒絶の意を告げられたら、自分はもうこの先の人生で立ち直れないかもしれない。そんなことを考えながら、ふらふらと依が向かった図書館の方へと歩き出す。思考はぶつ切りで、痛みの奥の熱だけがぎりぎりの推進力を与えている。
今になって、依の携帯のナンバーすら知らないという事実がさらに重くのしかかる。現実、まだそれだけの距離があるということだ。それでも、今でなくてはならなかった、と感じる。
空気に夜の匂いがかすかに揺らぎはじめた。このまま世界が終わるのかもしれないなんて思うくらいには落ち込んでいる。でもきっと、今を逃したら二度と依と向き合えない。
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