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第19話
隼人の通う大学には合計三つの図書館があり、依が向かったと思われる最も規模の大きい図書館は門をくぐって三百メートルほど中に入ったところにある。隼人はぎりぎりと痛み続ける胸を押さえながら建物の中二階にある図書館の入り口に続く階段を駆け上がった。
「っ……!」
階段を上り切ると、入口の自動ドアを灯太が抜けて出てきた。息の上がっている隼人を見た灯太は立ち止まり、訝しげに眉を顰めた。
「隼人?」
「……灯太、」
「なにしてんの?」
「……お前、依、見なかった?」
「依…………て、誰。あ、え、朝永さん?」
誤魔化す余裕もなく隼人が頷くと、灯太は不審さを強くしたようで眉間に寄せた皺を深くした。
「今さっき見たけど……何事?」
「っどこ行った?」
「え……や、知らない。俺がカウンターで手続きしてる時に来て、返却だけして出てった。そういえば、あの人もずいぶん慌てたけど……」
図書館にいないとなると、もう行き先の心当たりはない。隼人は脱力してその場にしゃがみこんだ。眩暈がする。このまま二度と会うことがないんじゃないか、なんて、同じ大学に在籍しているのだからそんなはずはないのだけれど。相手が依では次の行動の想像がつかない。
「っおい、大丈夫かよ!?」
「……じゃねーよ」
しゃがんだまま、額に手をあて溜息をつく。灯太が隼人の顔を覗き込んで、顔真っ青だぞ、と告げる。隼人はまた溜息をついて、首を振った。
「逃げられた」
「なに……まさか朝永さん、隼人ん家からなんか盗んで……?」
「んなわけないだろ……そんなこと、依がするわけないし」
「じゃあなに……てか、何で呼び捨て…………あれ、お前らそんな仲よかった?」
「……」
階下の通りにはちらほらと学生の姿が見受けられたけれど、その中に依の姿はなかった。まだそう遠くには行っていないはずではあるけれど、改めて依に全力で逃げられているという事実を実感すると足が竦む。
「……電話は?」
絶望の淵から遠くを見つめていた隼人に、颯太がふと何かを察した様子で尋ねた。隼人が首を振ると、困ったように頭を掻いて階段の段差に腰を下ろす。
「あの様子だと、もう結構遠くまで行っちゃってると思うぜ。どこの門から出たかもわかんないし、闇雲に探そうっても、無理かもな」
「……」
「聞いていい? お前、朝永さんのこと、気に食わないんじゃなかったの?」
答える前に聞いているじゃないか、という反論を、隼人は言葉にしなかった。みっともなく狼狽している姿を見せている時点で、質問の答えなど何の意味もなさない。
「……」
灯太は隼人の無言の返事からまた状況への理解を深めたようだった。こんな時、頭も勘もいい友人は厄介だ。彼は背負っていたバックパックから煙草を取り出し火を点けた。もちろん、ここは禁煙のエリアだ。
「……灯太、ここ禁煙」
「誰もいないし、灰皿持ってる」
端的に言い返し、灯太は煙草の煙を吐き出した。足が痺れはじめていたけれど、硬直したように体が動かない。
「おかしいと思ってたんだよな」
「はぁ?」
「隼人が誰かの悪口言ってるとこなんて、初めて見たから。それがどんな感情であれ、特別だったよな、最初っから」
「……」
本当に洞察力が高い。口をつぐむと、数秒の沈黙のあとで灯太が小さく笑った。
「前から思ってたけど、お前の無言ってもう言葉だよな。ガキみたい」
隼人はむっとして睨んだけれど、灯太はまるで意に介さない様子で煙草をふかしている。
「それで、本当はなんで朝永さん追っかけてんの? 喧嘩?」
「……出てくって、言うから。引き止めようとしたら逃げられた」
「もう好きだって言った?」
核心的な言葉がざくりと心臓に刺さる。隼人は力なく首を振り、はぁ、と灯太が呆れたように声をあげた。
「……お前ってやつは。そもそもまりかちゃんのことどうすんだよ」
「さっき別れた」
「はぁっ? まじで言ってんの?」
「まじ」
「朝永さんのことが好きだから?」
「……そー……らしい」
「らしいって何。何なのそれ」
「……っかんねーよ」
遠くでオレンジ色の空がずるずると動く。ずっと、頭の中で触れた記憶が膨らみ続けている。息を吐いても吐いても、すぐに胸がいっぱいになって溢れてしまう。
「わかんないじゃねーよ、馬鹿。てか、わかんないなら今すぐまりかちゃんに謝って全部嘘でしたって言えよ。二十年異性愛者だった男がそんな簡単に男好きになれるかよ」
「別に簡単に言ってるわけじゃ……」
「俺がお前なら、よっぽどの覚悟と確信がなきゃそんなこと言わない。なんかよくわかんないけど好きかもしんないとか、そんな半端な気持ちだったら結局朝永さんのことだって傷つけるぞ」
「っ……」
「たとえば、すごく精神的に参るようなことがあって、彼女の前でちゃんと男でいるより、気心知れてる男友達とかといる方が楽だと思ったとして。その時の感情は、一時の心の迷いの可能性大いにあると俺は思うけど?」
突き刺すような感触ではなく、じわりと傷口に染みるようなショックが隼人の中で拡がった。それは、咄嗟に言い返せなかった自分に対して、また、依がそれを案じて家を出ようとしている可能性を微塵も考えなかったことに対して。
初めは玲子が気まぐれで連れてきた地味な男をただ疎ましく思った。ペンダントを拾ってきたことをひどく後悔した。純粋な好意で玲子に接することができる依を羨ましく思い、自分の弱さに苛立ち、いつしかそれが心地よくなった。冷静に考えればたった二カ月でこれだけ変化した自分の感情を素直に信じ、これまでの世界を壊すのは確かにリーズナブルな選択とは言えない。そんなことはわかっていた。ただ、自分が感じた変化に非線形的なものは何もなく、全ては繋がった一筋の糸だった。それは確かに信じて掴むにはあまりにも細い糸だ。けれど、それでも、隼人にはこの感情が一時的な心の迷いだとはどうしても思えなかった。戻れるのなら、とっくにそうしていた。
目を閉じると、遠くでからからと鈴の音が聴こえたような気がした。吐き出した空気は夏のなかにのろのろと霧散する。
「……でも、好きなんだよ。いなくなるなんて耐えられない。絶対、無理」
「隼人……」
「本当、無理なんだよ……」
ずっと同じ姿勢でいたせいで痺れはじめた足で身体を支えられなくなり、隼人は階段の踊り場に尻をついて膝を抱えた。全ての音が遠のく。どんな非難を受けても、それがどんなに非常識であっても、依は失えない。
しばらくして、灯太が煙草をアシュトレイに押し込む音にふと隼人は顔を上げた。おそらくほんの数秒のことだろう。その数秒で、この二か月のことをまた反芻していた。
「お前、傘、持ってきた?」
「は?」
「なんか、夕立来そう」
突拍子のない質問に思わず隼人が眉を顰めると、灯太は気まずそうにこめかみを掻いた。
「ちょっと、考えてみたけど、俺にはやっぱり、よくわかんないわ」
「……」
「男同士。もともとゲイとかバイとかでっていうならわかるけど……たとえばある日急に隼人に特別な感情芽生えるかって、想像つかない」
「……それは俺だってやだけど」
「たとえばって言っただろ。でも……、まぁ、あの隼人がこのクソ暑いなかこんなところで小さくなって泣きながら訴えるんだから、それなりにまじだっていうのはわかるけど」
「泣いてねーよ」
「泣きそうじゃん」
「……」
灯太の盛大な溜息がのろのろと空気を伝う。
「俺の忠告ぶち壊したからには、朝永さん傷つけて泣かせたりしたら許さないからな。ちゃんとしろよ。間違っても朝永さんに好きかもしれません、なんて言うなよ」
「……言うか」
灯太はまるで信用していない様子でどうだか、と首を傾げながら立ち上がった。空を一瞥し、た溜息をつく。少し先の空が暗くなってきている。ついさっきまで晴れていたのに。
「あー、これ、まじですぐ降り出しそう。隼人もさっさと家帰った方がいいぞ」
「いや……」
「雨の中で探すより、家帰って待ってみれば。荷物だってあるだろ」
「……帰ってこないかもしれないし」
隼人が自信なく呟くと、灯太はまた大きな溜息をついた。
「あのね。お前のエア家出と違うんだから。お世話になった家から煙のようにいなくなるなんて、普通の大人ならしないんだよ」
「普通は、だろ」
「帰ってこなかったら、朝永さんもガキだってこと。ガキ同士の恋愛に未来はない。諦めろ」
「……」
「せいぜい健闘しろよ」
突き放すような言い方だけれど、軽蔑や嫌悪など感じられなかった。それが安堵に値することなのだということを、隼人は知らなかった。依の言っていたとおりだった。
「サンキュ」
灯太は何も言わずに笑みを浮かべ、バイトがあるから行く、と言って、隼人より先に立ち上がった。
楽をしてきた、と隼人は思う。実の両親を知らず、養母に育てられた事実は、隼人を苦しめる一方で、逃げ道を与えてくれた。依と出会って、逃げられないと隼人は初めて思った。逃げたくない、ではなく、抵抗の無意味さを悟った。それはとても大きなことで、抱えているのも大変なほどだ。だから自分だけでなく依のために強くなりたいと思う。逃げたくないと胸を張って言えるように。それは決意というには受身的で、格好悪いものだとわかっていたけれど、無理に格好つけても破綻するということをもう学んでしまった。揺らぎ始めた雨のにおいを感じながら、隼人はそう思った。
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