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とある美容師の憂鬱と幸福

 切りたての艶めく黒髪が、枕の上にうねって広がっている。 「あっ……んっ……こーへ、さん、そこ」 「わかってるよ、ここ、好きだね」  尻たぶにぴったり腰を押しつけて、奥をつついてやると、ぎゅっと締め付けてくる。肌と肌がぶつかる音と、ローションの泡立つ音がしきりに漏れて、平素は大人しい彼が意味のない言語で喚く。 「あーっ、あっ、あっ、こへ、さ、も、や、でちゃ、でちゃう」 「なーに?」 「も、いじわる」 「いじわるなんてしてないよー。一緒にいきたいだけ……ほら、俺も、もうすぐだからね」  ほっそりした脚を肩に担ぎ、一番よく擦れる角度に抉ると、絶叫に近い嬌声が上がる。この子のこういうとこ、すごく好きだ。  うーっ、ううーっ、獣のように呻る口を、キスで塞ぐ。  快感に揺さぶられながらも、懸命に応えようとするのがいじらしい。  大きなストロークで彼の中いっぱいを擦り上げると、 「あっ、あーっ、あーーっ」  一回、二回、三回目で勢いよく精液が飛ぶ。焦点の合わない彼の目を見つめながら、 「――んっ、いくね」  虹平もまたどくりと吐き出した。 「こーへ、さん」 「なーに」  恥ずかしそうに笑う彼と、ちゅ……ちゅ、涎まみれの唇で、何度もキスをする。  文系だけど、仕事は畑違いのシステム開発。愛読書はハヤカワミステリ。世間話はあまり得意ではない。服装にこだわりはあまりなくて、ユニクロと無印がほとんど。  次いつ会える?なんて無意味なことは聞かれないし、言わない。  次に彼を抱くのは、彼の襟足と前髪が、三センチ伸びてからだ。  自分の店を構えてから、そろそろ十年経つ。  元いた店からついてきてくれた客もいれば、新たに常連になってくれた客もたくさんいる。  向こうが自分を気に入ってくれているように、自分もまた、気に入った客に粉をかける。それだけのことだ。そのうちに、彼らの髪の質や癖、好みの雑誌や趣味と同じくらい、身体の具合にも詳しくなっていたというわけ。  閉店間際の予約は、カットとセックスの暗号だ。  プレートを「CLOSE」に裏返し、ブラインドを下ろして、天井のライトを一つだけ灯して洗髪台でひとしきり睦み合って、お会計してさようなら。身持ちの緩いゲイの自覚はあるが、誰に迷惑をかけているでもなし、虹平は一度きりの人生をそれなりに楽しんでいた。  深夜になってマンションに帰った虹平を迎えたのは、意外な人物だった。  いや、そもそも、一月前に同居人が出て行って以来、誰かに出迎えられることなどない日々が続いていたのだが。 「ごめん、鍵返しに来ただけだったんだけど。待たせてもらった」  その、一月前に出ていった同居人が、済まなそうに笑う。 「いいよ。どうしたの」  喧嘩別れをしたわけでも、浮気をしたわけでもされたわけでもなく、そもそも付き合ってさえいなかった。一ヶ月だけと最初に宣言した通り、ぴったり一月後には自分の前からいなくなった彼の身体に、虹平はついに一度も触れることがなかったのだ。一方的に感じる気まずさはむしろそれが原因で、彼はと言えば、元家主の鷹揚さに安心した顔で、勝手知ったるリビングへ踵を返す。 「遅かったね」 「んー。ちょっとね」 「飯は?」 「食べたよー、おいしかった」 「そ」 「拓也は?まだなの?」 「んーん、虹平さんがまだなら、一緒しようと思っただけ」  虹平の脱いだジャケットを受け取り、冷蔵庫から水を出し、グラスに注いでくれる。相変わらず甲斐甲斐しい男だ。  ソファの左側が沈み、失笑が耳元で弾ける。 「このにおい、久しぶりだ」  彼の好きな、しみついたシャンプーのにおいは自分ではもうわからない。  そう言えば、こうやってソファに並んで座って、大して好きでもないバラエティ番組をよく見てたっけ。なんて、案外、未練がましいな。 「……新居はどうなの?」 「駅から近いだけ。ここのほうがずっと住み心地いい」 「なーに、俺が恋しくなっちゃった?」  沈んだ気持ちを払って隣を見ると、真摯な瞳にひたと見つめられ、すぐに二の句が継げなくなる。 「虹平さん」 「……なに?」 「誰と寝てきたの?」 「なに、拓也」 「答えてよ」 「……拓也は知らない子だよ」  手のひらが肩に触れ、彼のすらりと通った鼻筋が、虹平の鼻を避ける。  表面を重ねるだけの、しかし、確かにそれはキスだった。  離れていく息遣いに、遅れて、心臓が逸る。 「なに、してるの」 「キス」  彼の口から音となった途端に、唇が痺れはじめる。 「なんで今さら……一緒に住んでた時だって、指一本触れなかったくせに」 「そりゃ、だって俺、居候だったし。家賃も払えないのに、そんなことできないよ」  拗ねたように唇を尖らせて言うから、知らず、語気が荒くなる。 「身体で払ってくれればいいって、俺何度も言ったでしょ。今までみーんな、そうやって俺に抱かれてきたんだから」 「俺、虹平さんに抱かれたいわけじゃない」 「最初はそういう子もいたよ。試しもしないで」 「そうじゃない。そうじゃなくて――俺、虹平さんを、抱きたいから」  ぞくり、と、鳥肌が立ったかもしれない。 「……はは、びっくりした。いつからそんな冗談」 「冗談じゃない」  拓也は、虹平をじっと見るのをやめない。今、俺、どんな顔してる? 「困らせるってわかってたから、言えなかった。あんたが付き合ってきた男と、俺じゃ、笑えるくらい違うもん」  きれいな男が好きだ。可愛い男も好きだし、悪い男も好き。ぽっちゃりした男も気持ちいい。  拓也はそのどれでもなかった。  まっすぐで、健やかで、飾らなくて、優しくて、誠実で――自分の周りに、こんな男、そういない。 「……俺を抱きたいって、言った?」 「わかってる、俺はあんたのタイプじゃないし、あんたはネコじゃない」  俯いた拓也の精悍な頬に、手を伸ばす。 「そんなこと聞いてない。ねえ、もう一度、言いなよ」  おずおずと見上げる目を、今度は虹平が捕らえる番だ。 「抱きたい――虹平さんのこと、抱きたい」  身体の奥が、雌が、きゅん、と疼く。  覗き込めば、彼も、自分も、パンツの前を硬く盛り上がらせている。 「いいよ」 「いいの?」 「いいよ……ただし、覚悟するんだよ」  すんなりとしなやかな首に腕を回し、そのままソファに倒れ込む。 「もう二度と、女は抱けなくなるからね」 「今だってそうだよ……」  吠えるような息が耳に吹き込まれ、熱い唇が吸いつく。形のよい後ろ頭を撫でながら、虹平は首筋の愛撫にうっとりと目を瞑った。 「……ね、拓也」 「ん?」 「明日、髪、切ったげる」 終わり

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